哲劇メモ

吉川浩満(@哲学の劇場)の日々の泡

死ぬにはいい日

「今日は、死ぬには、いい日だ!」
サウスダコタの歴史に残るウーデッドニーが占領された時、こう叫ばれた。しかし、誰が最初に叫んだかは記憶されていない。
オグララスー族のクレージーホースは、1876年6月25日、ジョージ・アームストロング・カスター将軍に屈辱的な敗北をもたらしたローズバッドにおける戦いで、馬に乗り突進しながら、同志たちに叫んだ。
ホカヘー! われに続け。
今日は戦うには、いい日だ。
今日は、死ぬには、いい日だ!

via 『夜明けへの道』
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/tiakio/index.html

今日ははたして、死ぬにはいい日か。まったくそうではない。死ぬには、あらゆるものが足りない。いや、むしろこう言うべきだ。死ぬには、あらゆるものが余計だと。「水虫を治していない者は自殺に値しない」寺山修司がこう言ったとき、彼は正しかった。やり残したことが多すぎると嘆くとき、むしろ事態はその逆であることに気づかねばならない。いらないものが多すぎるのだ。「今日は、死ぬには、いい日だ」と私が叫ぶときがあるとするならば、それは懸案であった物事をやり遂げたときではなく、余計なものがすべて剥ぎとられたと感じたときであろう。しかし、余計なものを剥ぎとろうとする私の試みは、むなしくも余計なもののさらなる積み重ねにほかならなかった。私の脳裏を離れない強迫観念、それが「死ぬにはいい日」を追い求める強迫観念であったとするならば、むしろ、まずはその強迫観念をこそ捨て去らねばならないのではないか。