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哲劇メモ

吉川浩満(@哲学の劇場)の日々の泡

マラブー女史来日(1)

カトリーヌ・マラブー(パリ第10大学)
港千尋(写真家,多摩美術大学

カトリーヌ・マラブーの著書(Que faire de notre cerveau ? -- Neurosciences et philosophie, Bayard, 2004)の日本語訳出版『わたしたちの脳をどうするか――ニューロサイエンスとグローバル資本主義 』(春秋社より6月下旬に刊行)を記念した,写真家の港千尋との対話.同書の翻訳者である桑田光平と増田文一朗も参加の予定
http://www.mfj.gr.jp/prog/prog_0507j.html#c0705

行ってきます。

わたしたちの脳をどうするか―ニューロサイエンスとグローバル資本主義

わたしたちの脳をどうするか―ニューロサイエンスとグローバル資本主義

レポート

行ってきました。感想だけ先にいうと、たいへんおもしろかったし勉強にもなった。以下、徒然なるままに報告(だけど、わたしの関心のみにそった報告であり、網羅的なものではありません)。

会は以下のように進められた。

  1. マラブーさんの(テクストをもとにした)講演(1時間?)
  2. 港千尋さん、桑田光平さん、増田文一朗さんのコメント(30分?)
  3. 質疑応答(30分?)

マラブーさんの講演は、おおざっぱにいって前半と後半に分かれた。前半は脳の「可塑性」の話で、後半は「政治」の話。

まず前半を要約、敷衍してみる。

脳は可塑的である。この「可塑性」(plasticité)は三つの意味をもつ。一つめは「中心性の告発」、二つめは「脱局在化」、三つめは「適応性」である(同書本文における「可塑性の三つのレヴェル」と表現が少し違っていた)。他方で忘れてはならないのは、可塑性は形の受容と創造だけではなく、消滅や破壊をなす能力をももつということ。「プラスティック爆弾」(plastic)は猛烈な爆発性物質である。可塑性は形の受容と創造だけでなく、構成された形にたいする不服従、抵抗をも行う。

このように脳の可塑性を理解すれば、脳を電話交換局に見立てたり(ベルクソン)、コンピュータに見立てたり(認知科学)することがもはや無用であることがわかるだろう。いまや脳は、中央からの指令とか伝達とかいったボキャブラリーではなく、創造とか発明とか即興性といったボキャブラリーを用いて考えられなければならない。

さて、いまわれわれは、ある問いの前に立たされている(ここからが後半)。

それは、柔軟性か可塑性か(われわれは柔軟的であろうとするのか、可塑的であろうとするのか)という問いである。

「柔軟性」とは、最近のフランス企業で大流行している概念である。これは容易に想像がつくとおり、グローバル化し多様化した世界市場の状況変化にたいして個人であれ組織であれが的確に応えるために必要とされたものである。さまざまな状況の変化や不慮の事態にたいして、それこそフレキシブルに対応できるスキルが求められている。

柔軟性と可塑性とは混同されやすいが、じつは似て非なるものである。むしろ二つの概念はまったく逆の意味をもつのであり、これらを区別することが決定的に重要である。柔軟性は外から加えられた力に応じて自らを変形させるだけの機能しかもたない。柔軟性にはいかなる爆発もない。それにたいして可塑性は、形を受容し創造するだけでなく、場合によってはそれを爆発によって破壊・消滅させてしまう力をもっている。

これは、主体性が(固定したものではなく)自己のテクノロジー(©フーコー)を通して語られる現代において固有の問いである。可塑性は、図式に抗い、特定のモデルに押し込められることを拒否する。そしてグローバリゼーションが強要するような柔軟性を爆発させる力能をもっている。

以上、記憶とメモを頼りにまとめてみた。

さて、質疑応答の時間になり挙手が求められたが、誰も手を挙げない。そこで僭越ながらわたくしめがマラブーさんの講演内容についての質問をすることにした。

わたしの質問の要旨は下記のとおり。

  • 脳の可塑性についてのお話はとてもよく理解できる
  • 柔軟性でなく可塑性を宣揚した政治的ヴィジョンも理解できる
  • しかし、両方ともに理解できるのに釈然としないものが残る
  • それは、脳の可塑性を論じ、また可塑性を通して政治的ヴィジョンを語ることで、「いったいなにをしていることになるのか」がよくわからないからである
  • 凡人たるわたしがすぐに思いつくのは次の二つの可能性だ
  • 1.政治的ヴィジョンの正当化(基礎づけ)のために脳の可塑性概念を利用するということ。2.社会の解読のために脳の可塑性概念を「アナロジー」として利用するということ。つまり「正当化」あるいは「アナロジー」。
  • しかし、マラブーさんがやろうとしているのはたぶんちがうことだろう。というか、ちがっていてほしいと思う。さらにしかし、非才の徒たるわたしには上記の二つ以外の可能性が思いつかない
  • だから、その点についてどう考えているのか教えてほしい

わたしがフランス語をしゃべることができないという言語能力の問題があり(同時通訳をしてもらった)、質問の趣旨がうまく伝わったかどうかよくわからない(関係ない私事だが、こういうときのためにもフランス語ペラペラになりたいものだ)。

マラブーさんは真摯に答えてくれたが、ちょっと予想外の返答で驚いた。マラブーさんは、「脳が政治的であると自分が考えるにいたった次第」を語ることで、上記の質問に答えてくれた。彼女は、脳科学の症例報告などを調べるうちに、脳の仕組みや機能、障碍や病気といったものが人間の他の器官におけるそれらとはまったく異なることを痛感したという。肝臓や腎臓の病気においては生じない政治的意味が、脳の病気においてはただちにあらわれる(たとえば精神障害者の処遇や犯罪との関連など)。つまり「脳は政治的である」、と。

はじめは驚いたものの、マラブーさんの返答から、わたしはとりあえず以下のように理解することにした(前述のとおり、質問の趣旨が伝わっていなかった可能性もあるし、わたしがもっとうまく工夫して質問をしたならばマラブーさんの返答もちがったものであったかもしれず、その点は微妙である。とりあえずここでは、実際になされた返答をもとにしたわたしの現時点での理解を示す)。

どのように理解したのかというと、こうだ。

同書(マラブーさんの全著作を読んだわけではないので、とりあえず同書に限定する)において「脳は政治的である」という言述は、数学における「公理」のようなものである。とりあえずこの公理を出発点として、それ自体の是非は問わず、可塑性概念を駆使しながら、社会の分析と政治的なヴィジョンを語ったのだ、と。念のために付け加えると、わたしはこう言うことで同書をおとしめるつもりはない。この公理を出発点とするならば同書のような本が出来上がる。そしてその出来栄えといえば、たいへん完成度の高いものだと思う。おもしろいし。

ただわたしの関心としては、この公理を出発点にすることよりも、当の「脳は政治的である」という公理がいかにして編成、形成されるのかということにある。面積をもたない極小の点(=アルキメデスの点)になってしまっているその公理自体のうちに、おもしろい研究のための「広大な沃土」が広がっているように思えるのである。さらにいえば、同書の試みはアルキメデスの点によって可能になる三題噺(新聞社の試験などで出題される「〈脳〉〈可塑性〉〈政治〉を論ぜよ」のような)というだけのものになってしまっているのではないだろうかという危惧もある。もちろん、ひとつの作品としてはそうであってわるいことなどなにもないわけだが、少なくともマラブーさんが見ているのはそんな方向ではないはずだと思う。だからこそアルキメデスの点をグリグリと拡大してみたくなるのである。このことをどう考えるのかについて、マラブーさんにさらに聞いてみたかったのだが、「貴重な質疑応答時間を独占する迷惑なやつ」になりたくないという小心者特有の臆病さから、聞きそびれてしまった。

会が終わったとき、隣に座っていた人が「『心脳問題』の方ですか?」(大意)と話しかけてきてくれた。なんとマラブーさんのお弟子さんのようである。現在フランス留学中で、マラブーさんの来日にあわせて日本に帰ってきたとのこと。さらにご親切にも、流暢なフランス語でわたしのことをマラブーさんに紹介してくれた(ドサクサにまぎれてマラブーさんからサインもいただいた。へへ)。わたしは自分の質問が完全にトンチンカンで、会場の誰からも理解されていなかったとしたらどうしようと恐れおののいていたのだが、彼はわたしの質問の趣旨を完全に理解してくれ、さらには「もっとガチでいってもよかったのに」(大意)と言ってくれた。これはたいへんうれしかった。なにしろマラブーさんのまわりの人びとが(おおまかにみて)なにを考えているのかがまったくわからないものだから。また、彼の先輩のブランショ研究者の方も「わたしも同じ質問をしようと思った」(大意)と言ってくれた。このことを考えれば、わたしがした質問は、(地球上でこの三人だけがトンチンカンであるという可能性を無視すれば)そんなにメチャクチャなものでもなかったのかもしれない。このお二人と、いつかまたお目にかかれる機会があるだろうか。そのときには今回のイベントを含むさまざまなテーマについて語り合いたいものだ。

最後にもういちど念を押すと、前述のとおり、質問の趣旨が伝わっていなかった可能性もあるし、わたしがもっとうまく工夫して質問をしたならばマラブーさんの返答もちがったものであったかもしれない。だから以上の報告は、実際にになされた返答をもとにしたわたしの現時点での理解を示すものであり、決定的・最終的な理解ではまったくない。ともかく、同書を再読再々読して、わたしもさらに考えてみる必要がある。

◇哲劇メモ > [本][脳科学][哲学][新刊] 可塑性と柔軟性
http://d.hatena.ne.jp/clinamen/20050630/p3

◇日仏会館地図
http://www.mfjtokyo.or.jp/guide/guide_002.html

追記――メモ(20050706)

ここでは、上に述べたような論点からいったん離れて、ちょっとちがった角度からマラブーさんの仕事に触れてみる。

唐突だが、そしてお師匠さんのデリダの話でなくて恐縮だが、わたしがいつも心に留めている格言に、ジル・ドゥルーズによる3つの格言がある(いつか4つになるかもしれないし2つになるかもしれないが)。

  1. 哲学者は概念を創造する(D1)
  2. 哲学者の背後にとりついて鬼子を産ませる(D2)
  3. 批評の相手が墓の下で涙を流さないですむような作品をつくる(D3)

マラブーさんによる「可塑性」概念の駆使(『ヘーゲルの未来』から『わたしたちの脳をどうするか』まで)を見ていると、まさに上のドゥルーズの格言を思い出す。

マラブーさんによる執拗な「可塑性」概念の彫琢は、概念のアーティストとしてのそれかもしれない(D1)。また、マラブーさんがその「可塑性」概念をどこからもってきたかを考えると、彼女はヘーゲルと脳科学を「政略結婚」させて鬼子(=「可塑性」)を産ませようとしたのだといえるかもしれない(D2変形版)。死んだヘーゲルや科学者たちが墓の下で涙を流していないかどうかは、『ヘーゲルの未来』を熟読してみるまでわからないが(D3)。

以上、思いつき。

◇哲学の劇場 > 作家の肖像 > ジル・ドゥルーズ
http://www.logico-philosophicus.net/profile/DeleuzeGilles.htm

追記――その後の拙記事

◇哲劇メモ > マラブー女史来日(2)
http://d.hatena.ne.jp/clinamen/20050707/p5

◇哲劇メモ > マラブー女史来日(3)
http://d.hatena.ne.jp/clinamen/20050708/p2

◇哲劇メモ > カトリーヌ・マラブーさん送別会
http://d.hatena.ne.jp/clinamen/20050724/p3

追記――リンク(20050706)

下記はご存じウラゲツ☆ブログによるマラブー氏関連記事。

◇ウラゲツ☆ブログ > マラブー新刊2冊、脳とヘーゲル
http://urag.exblog.jp/2077430/

下記はわが相棒(id:yakumoizuru)による関連記事。

◇作品メモランダム > 脳とイメージ/カトリーヌ・マラブー
http://d.hatena.ne.jp/yakumoizuru/20050627/p1

追記――ほかの参加者によるレポート(20050717)

id:schaumlosさんによる詳細なレポート。

◇人間;その他、呑んだくれ > カトリーヌ・マラブー 「わたしたちの脳をどうするか」
http://d.hatena.ne.jp/schaumlos/20050717