哲劇メモ

吉川浩満(@哲学の劇場)の日々の泡

「哲学」――ウィトゲンシュタインとデリダ(ローティ)

上記二論文をまとめてフリッパントに要約・敷衍。

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「哲学」なるものの身分について、いろいろなことが言われてきたし、いまも言われている。そこでのおもな争点は、「哲学の終焉」と「哲学の純粋性」である。つまり、哲学を終わらせることと、哲学の純粋さを保つ(固有の領域を確保する)こととのあいだの争いである。

でも、実際のところ、いったいなんの終わりが、また、なんの純粋性が問題になっているのかは、必ずしも明らかではない。いったいどうなっているのか。そのことを、大きな影響力をもつことになった二人の現代哲学者――ルートウィヒ・ウィトゲンシュタインジャック・デリダ――の仕事を念頭に考えてみよう。

そもそも哲学とはなにか。哲学者とは誰のことなのか。もちろんこれにはさまざまな答えがありうる。むしろ答えがありすぎるのである。試しに、ふつう「哲学者」として知られる人びとを無作為抽出して、ヘラクレイトスプラトンパルメニデスマルクスエピクテトス、アクィナス、デカルト、ルソー、カント、ヘーゲルキルケゴールニーチェフレーゲフッサールハイデガーといったリストが得られたとしよう。このとき、これらの人びとをエウリピデスモンテーニュニュートン、イエーツ、エマーソン、ドストエフスキーボードレールトルストイプルーストマードックといった人びとから区別できるような、なにか共通の主題を見出すことができるだろうか。そんなことを主張する人はいないだろう。結局、現代においてわれわれは、ある一連の歴史的人物に注釈を加える営為やそれを行う人びと、というしかたでしか「哲学」とか「哲学者」を見分けることができないのである。ことほどさように、「なんの終わりが、また、なんの純粋性が問題になっているのか」ということが必ずしも明らかでないことは明らかである。

そこで、こんな風に考えてみよう。下記のように、「哲学」という言葉があてはまる三つのケースを区別してみるのである。それで事態が少しは明確になるかもしれない。

  1. 「いかにして、もっとも広い意味における事物が、もっとも広い意味においてたがいにかかわりあっているか」にかんする議論
  2. 「真理」善」「理性」「言語」「主観」「客観」「精神」「物質」など、大哲学者たちが論じてきた主要トピックの集まり
  3. おもに学校で教え学ばれる「専門学科」の一分野

上記のそれぞれを便宜的に「哲学1」「哲学2」「哲学3」と呼んでおこう。

まず、哲学1については問題はなさそうだ。こんな風にものすごく広い意味で一般的に考えるなら、哲学は明らかになんらかのはっきりした領域をもつものではない。それは人びとのあらゆる領域における活動に浸透しているものだし、またそうであらざるをえないものだ。だから誰もそれを終焉させることができるとか終焉させるべきだとか主張したり、それを純粋に保つべきだとかそうしないべきだとか主張することはしないだろう。そもそも、それが「終わる」ということの意味すらわからないような、それは活動なのである。この意味では「哲学者」という言葉は、ほとんど「知識人」とか「知者」とか「賢者」と同じような意味をもつことだろう。

哲学2を飛ばして、哲学3をみてみよう。これにも問題はなさそうだ。ある哲学科なり哲学ゼミなりにおいて論じられている内容の純粋さは、どんな専門学科でも当然もっているような純粋さだからだ。また哲学という専門学科がなくなるとかなくならないとかいう問題も、どんな専門学科にも当然ともなうものだ。どんな専門学科でも、ある程度ながいあいだ存続したならば、それなりの純粋さをもつようになる。だから哲学3もそれなりの純粋さをもっている。でもその純粋さは、アミノ酸の働きの研究や谷崎潤一郎の文体の研究や始皇帝公共事業の研究も同じようにもっている純粋さであって、ことさらに哲学的なものではない。そうした専門学科はそれ自身の寿命を当然もつ(それが「自然な」寿命なのか「不自然な」寿命なのかはともかくとして、とにかく一定の寿命をもつ)ものであり、人びとのあいだでそれが意義のあるものなのか意義のないものなのかという合意などによって、生まれたり終わったりするのだろう。もちろん、専門学科としての哲学のカリキュラム削減にまつわる議論は実際に存在するし、デリダもそれにコミットしていて、そこからさまざまな興味深い問題をとりだせると思うのだが、とりあえずここではおいておこう。

さて、哲学2である。哲学2は、特定の明確かつ不朽の諸問題の研究に与えられた名前として考えられなければならない。哲学は多くの場合、直接に対象を志向・研究する科学や宗教や芸術のような活動とは異なる活動なのだとみずから考えることを楽しみとしてきた。哲学は、物事と物事のかかわりに応接することにかんして、完全に厳密であったり無前提であったり超越論的であったりと、とにかく哲学者でない者(素人、科学者、芸術家、宗教家など)にはもちえない純粋かつ決定的な方法をもつと主張することを好んだ。そんな哲学の野望など、とうに投げ捨てられたと思う人もいるかもしれないが、案外そういうわけでもない。たとえば、諸経験科学の諸成果にたいして、「それを特定の明確かつ不朽の諸問題のあらわれと見なし、その成立の条件を問うことでその営為そのものを超越論的に批判する仕事は哲学にのみ可能なことであり、それこそが哲学者の特権的任務である」というように考える人はいまでもたくさんいる。それは純粋で決定的な方法を用いよという哲学の命法から自然に導き出される任務であり、その仕事の重要な一部をなしているのである。

結局、問題になっているのは哲学2の身分であり、ウィトゲンシュタインデリダがおもに相手にしていたのも哲学2であったといえる。いやむしろ、二人のなした仕事によって哲学2の身分が問題になったのだと言うべきかもしれない。

それでは、ウィトゲンシュタインデリダの両名は、哲学2にたいしてどのようにふるまったのだろうか。(彼らがもっとも調子がよかったときには、の話ではあるが)ウィトゲンシュタインは皮肉によって、デリダは冗談によって、哲学2とわたりあったのである。

ウィトゲンシュタインの『哲学探究』は、「哲学者たちは人間と世界の関係をかくかくしかじかと考えてきたが、わたしはいまやそれはかくかくしかじかであるということを示す」というかたちをとらない、デカルト的伝統への最初の偉大な反駁書であった。近代哲学の伝統的諸問題をくつがえそうとする企ては、多くの場合、近代哲学がはらむ問題性を避けるためにはどのように考えなければならないか、というかたちをとってきた。しかし、ウィトゲンシュタインはそうした「構築的」批判をきっぱりとしりぞけ、皮肉に徹することになる。彼は、哲学の純粋性という考えがいかに救いようがないか、それらがいかにわざわざ解決不可能なかたちで提起されているか、旧い問題がもつ不具合を新しい装置によって修理できると考えることがいかに愚かであるか、などをただ示すだけなのである。彼は、人間をかくかくしかじかと考えることをやめてかくかくしかじかと考えることにしよう、などとは言わない。また、伝統的諸問題が開いてしまった裂け目はかくかくしかじかのように考えれば閉じて見える、などとも言わない。彼は、説明されるべきなにかがそこにあるということそのものを嗤うだけだ。これが彼の皮肉である。

デリダのほうはどうだろうか。デリダもまた「構築的」批判をしりぞける。彼の作品もまた、「哲学者たちは人間と世界の関係をかくかくしかじかと考えてきたが、わたしはいまやそれはかくかくしかじかであるということを示す」というかたちをとらない。しかし、アプローチのしかたはウィトゲンシュタインとは少々異なる。彼は皮肉るのではなく、遊ぶのである。哲学を一種の文字言語、つまりエクリチュールとみなすことにたいして、なぜこれほどまでに抵抗がなされるのか。どれどれ、哲学がそんなに純粋なもの(単なる文字言語にはおとしめられないもの)であると哲学者たちが考えているのであれば、彼らのテクストを腰をすえてじっくりと読んでみよう。哲学とはじつのところ、文字言語の一種でないことを望んでいる文字言語の一種なのではないのか、というわけである。案の定、そこで彼は数々の「不純さ」を見出すことになる。彼はその不純さを、さまざまな冗談(駄洒落や地口)を駆使してあぶりだす。駄洒落や地口を駆使した冗談こそが、哲学がまぎれもなく文字言語の一種であることを明るみにだすのである。ここで冗談は――ウィトゲンシュタインの皮肉と同様に――伝統的な哲学に対抗して新しい哲学を樹立するための道具ではない。

二人の「哲学者」による哲学2の扱いは、単なる特定の「文化的伝統」のひとつに接するさいのそれである(広義には古代ギリシアに生まれた特定の文化的伝統。狭義には17世紀の哲学者たちによって創設された特定の文化的伝統)。それを研究することは専門学科の仕事であるが、それ自体は専門学科ではない。ちょうど、不良中学生どうしのガンの飛ばしあいが特定の文化的伝統であり、それを研究することは専門学科社会学など)の仕事であるが、それ自体は専門学科ではないのと同じことである。なお、「単なる特定の文化的伝統」という言いかたに含まれる「単なる」という言葉自体には侮蔑的な意味はまったくない。もしそうであったなら、哲学だけでなくあらゆる文化的伝統を侮蔑してもよいであろう。また、哲学が単なる文化的伝統のひとつでないのであったならば(それがほかの諸領域とは決定的に区別される純粋性を要請するものであったならば)、旧いそれにたいして新しいそれを考案することがぜひとも必要になる。しかし彼らは哲学をそのようにみなしていない。しかも、それがもはや不要なものなのではないかとみなしているのである。

皮肉と冗談、という戦略もそこから出てくる。ある文化的伝統が存在し、その存在を認めたうえで、しかしその文化的伝統から自分や人びとを引き離したいと考えた場合、皮肉と冗談は適切なやりかたである。そう考えた場合、それを否定したり批判したりするのは愚かなやりかたである(もちろん、そう考えない場合にはそのかぎりではないし、そう考えない行きかたにも十分な理由があろうが)。現に存在するものを否定しようとするのは、それがいったいどのようなことなのかがはっきりしないやりかただし、それを批判しようとするのは、当の文化的伝統にそのまま属することを意味するからだ。

哲学との関係における彼らの位置は、「神なんていない」とか「神なんて幻想だ」とか言うよりもむしろ「神とわれわれの関係について語ることのすべてが、われわれの道を阻んでいる」と語ることを選んだ、かつての世俗主義者と比較することができる。または、彼らはかつての世俗的知識人たちが当時のハイブラウな文化にたいして行ったことをしようとしているのである。彼らは、もしわれわれの知的生活のなかに打ち立てられた哲学2がなかったとしたら、事物がどのように見えるだろうかということを示唆しようとしているのである。

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と、いうような感じ。(きちんと読み込みたい人は直接原著にあたっていただきたい。)

  • Richard Rorty, Consequences of Pragmatism: Essays, 1972-1980, University of Minnesota Press, 1982

Consequences of Pragmatism: Essays, 1972-1980

Consequences of Pragmatism: Essays, 1972-1980


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