哲劇メモ

吉川浩満(@哲学の劇場)の日々の泡

パンケーキ


前回の雑記(*1)でシュガートーストのことを書いていたら、パンケーキ事件を思い出した。

あまり知られていないことだが(*2)、わたくしが冗談・揶揄・からかいを抜きに安んじて「先生」と呼べる人物は、学生時代からの恩師であるA先生のみである(以下、端的に「先生」と表記する)。

わたくしがまだ国書刊行会(*3)なる特殊版元に勤めていたころのことだから、かれこれもう10年近くもマエ(*4)のことだ。

ある日、先生から突然連絡があった。現在は学生時代と同様に頻繁にお目にかかっているのだが、当時はわたしが就職直後でバタバタ(オトナ語。©糸井重里)していた時期であり、ほとんど連絡をとりあっていなかったので、その連絡はいかにも唐突に思えた。

軽い世間話ののちに、先生はこう切り出した。

「ひとつ、帝国ホテルで朝食と洒落込みませんかな?」

翌日の朝、二人はスーツに身を固め帝国ホテルのロビーで落ち合った。「ちゃんとした身なり」をしてくること、朝食代は先生が持つこと、というのは先生からの提案、というより命令であった。

レストランの入口には、朝食のメニューが掲げられていた。朝食は2種類。コンチネンタルなんとかかんとかと、パンケーキ。コンチネンタルなんとかのほうが豪華そうで値段も高かった。しかし、これもあまり知られていないが、わたくしはシュガートーストと同様にパンケーキ(というか「ホットケーキ」)が好きなのである。(「やったぁ、帝国ホテルのパンケーキ」)と「心の中」(©大森荘蔵)でつぶやいている(両目がハート。ハートの中はパンケーキ)と、先生はこう断言した。

「吉川さんは、 も ち ろ ん コンチネンタル、ですな」

先生としては、より豪華で高価な朝食をという配慮をしたつもりだったのであろう。ところが、不肖の弟子たるわたくしは……否、否、断じて否!(©ショーペンハウエル)やはりパンケーキを食べたかったのである。しかし、わたくしにできたのはただ、(いつものように)諭されキャラとしてコウベを垂れ、「はい」とつぶやくことのみであった。

それからしばらくたったのちのことだ。以上の話を、先生のゼミの同級生であったAさんにおもしろおかしく話したことがある。Aさんは、その後に行われたゼミの同窓会(残念ながらわたくしは参加できなかった)において、その話を披露したとのことだ。Aさんによれば、その話を聞いた瞬間、先生はにわかに色めきだち、

「水臭い奴だ!」

と叫んだ(©ウィトゲンシュタイン)そうである(*5)。

先生は、実績は当然として資質も能力も鍛錬もはるかに劣る40歳年下の不肖の弟子たるわたくしたち(ごとき)にたいして、どんなときでも敬語で話しかけるのを忘れない、そんなお方である。書面においてわたくしたち(ごとき)に呼びかけるときには、当然のように「学兄」「貴兄」を用いられる。もちろん、わたくしたち(ごとき)にたいして声を荒らげたことなど、一度たりとてない。

そんな先生が声を荒らげられる場面――しかも「水臭い」などという因襲的な表現、「奴」などという野卑な言葉!――、僭越ながら、そして(立場上)身の程知らずにも、わたくしも見てみたかったと思うのであった。

そういうわけで、わたくしはまだ帝国ホテルのパンケーキを食べていない。