哲劇メモ

吉川浩満(@哲学の劇場)の日々の泡

絓秀実さん(Twitter)、石川義正さん(私信)

拙著『理不尽な進化』について、文芸批評家の石川義正氏より頂戴した批評=批判です。先月11月10日にいただいた私信ですが、ご本人より掲載を快諾いただいたので、ここに全文をご紹介します。私が書かなかった(/書けなかった)ことをも視野に入れたうえで作品の存在理由そのものを問い直す根本的な批判が展開されていると思います。ありがとうございました。

ご高著、非常な関心と興奮をもって拝読しました。
率直にいって「先にやられた!」という感想をまずはお伝えしなければなりません。
これは科学啓蒙書を皮をかぶった、正真正銘の哲学の書物です!
しかもその標的が(私自身が「建築」を通して考えている)今日の機能主義であり、それを私なりに敷衍するなら、たとえばあの嬉々として「アーキテクチャ」を振り回す連中(ドーキンスよりだいぶ格が落ちますが)であろうと思われるのです。
しかもかれらの弱点を的確かつ決定的に突いておられる点では、私などには及ぶところのない手腕だと(嫉妬と羨望を含めて!)申し上げなくてはなりません。
本当に啓発されましたし、面白い本です、これは。
だから、というべきか、ただし、というべきか、にもかかわらず、というべきか、ここではあえてこの本の核心であるベンヤミン的な側面について、異論もしくは問いを発したいと思っています。しかもそれは、おそらく吉川さんと似たような場所をさまよいながら、私自身には答えようのない問いでもあります。つまり、この本はニーチェを回避することで成立しているのではないか、という疑問です。

1、索引によればニーチェに触れられているのは3箇所、いずれも補足的な扱いに思えますが、しかし私見では「進化論」に対する最初の、そして最大の問いを突きつけたのは(まさにすがゼミの松本さんがご専門のクロソウスキーの解釈を通した)「永遠回帰」と「超人」ではないでしょうか。生の無意味性を開示する永遠回帰は、それを肯定する(「素粒子」とは真逆の)超人とそれ以外とを選別するという真の「方法」を呈示しており、それこそグールドの望んで得られなかった「中心原理」ではないでしょうか。それともあるいは「永遠回帰」は「偽りの詩」にすぎないのでしょうか。

2、しかしもしそれが「偽りの詩」にすぎないとしても、著者はそれに決定的に加担していると私には思われます。というのも「方法と真理」という二項対立そのものが、その二項対立を支える「真理」の側でしか成立しえないはずだからです。「方法」の側には、そこに「真理」がないとは論理的に承認することはおそらくできない。だからかれらは普遍的ライプニッツ主義を自認するのであり、そこには理不尽さの余地はないはずです。だとするなら「方法と真理」という二項対立そのものを支えるメタ「真理」=理不尽さの肯定こそ、事実上「永遠回帰」と同一でなくてはならないのではないでしょうか。

3、もう一方で「方法」の側には「コンコルドの誤謬」ならぬフクシマあるいは原発の誤謬についても、それを批判する内在的な視点が存在しないことを著者は示唆しているのでしょうか。おそらく放射性廃棄物半減期が10万年であったも、進化の数千万年あるいは数億年の単位からみればそれは考慮するに値しない(関係ない!)でしょう。かれらには衝突あるいはすれ違いという認識はないはずです。だからこそ真理と方法のあいだの政治と倫理による「折衝」が必要だ、と著者が考えているのなら、しかしそれは上記2の理由によって不可能なのではないでしょうか。方法=普遍的ライプニッツ主義にとって、倫理と政治はせいぜい譲歩と妥協の別名にすぎないはずだからです。だとしたら、原子力という科学の秘密主義とエリート主義は避けえないものとなる。逆にいうなら、真理と方法という思考の枠組みそのものが必然的に原子力業界の隠蔽体質を裏側から支えていることにはならないでしょうか。

グールドは文庫で読んでいるものの、なにしろダーウィニズムについてまったく無知蒙昧な人間なので、どれも見当の外れた考察もしれません。しかし上記はすべて超越にかかわる問いであり、しかもそれは避けようがないとも思われるのです。ベンヤミンの「過去の全体の歴史的回帰」はほとんど永遠回帰を避けつつそれ自体を語っているようにしか思えませんが、そこでは方法が否認する超越的なもの(偽りの詩)が不可避的に現れざるをえない。もちろんこんなことはプライスの悲劇を最後に取り上げた著者にとっては自明のことであるであろうにせよ、しかしそれは結局のところ回避の美的な表象にすぎないのでは、という疑問がうまれるのです。

いずれまたすがゼミのときにでもお話できたら、有意義な議論ができるのではないかと思っています。
近いうちにまた!

なかなか難しいところもあり、すべてを理解したとはとうてい言えませんが、少なくとも理解できた範囲において、私はこの批評=批判にほとんど全面的に同意せざるをえません。とはいえ、じゃあどうするのかというと、とりあえず今はどうすることもできないというのが正直なところで、ニーチェの遺稿などを読みながらゆっくり考えていきたいと思います。

先日、批評家の絓秀実氏が拙著について次のようなツイートをしてくださいました。先の石川氏と通ずる鋭い批評だと思います。というか、私にとっておふたりの評言はほとんど同一の問題を指摘するもので、困難ではあるけれど重要な宿題を与えられた思いです。ありがとうございました。

なお、石川氏は来春にも第一評論集を上梓されるとの由。たいへん待ち遠しい。2002年、綾小路きみまろが突然ブレイクしてわれわれの前に姿を現したときのような衝撃をもって読書界に迎えられることと思います。

天皇制の隠語

天皇制の隠語

理不尽な進化: 遺伝子と運のあいだ

理不尽な進化: 遺伝子と運のあいだ