対話の回路
- 作者: 小熊英二
- 出版社/メーカー: 新曜社
- 発売日: 2005/07
- メディア: 単行本
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帰りの電車内で急いでふたつの対談を読む。下記、気になった箇所をメモ。
- ※ページ数を示した引用以外はすべて「大意」(=吉川による勝手なまとめ)です。お気をつけください。
ナショナリズムの定義
まず、上野氏がこんな疑問を提示する。小熊氏は、ナショナリズムを公共性や連帯のような「名前のないもの」にたいして与えられた名称として使っているようだ。しかしそうなると、「ナショナリズム」は内包のない無定義概念になってしまう。それでいいのか。
小熊氏はこう答える。まず、ナショナリズムと呼ばれる現象はいろいろありすぎる。とりあえずは「国とか民族を単位にしてものを考える」という現象をナショナリズムと呼ぶしかない。好むと好まざるとにかかわらず、近代社会においては国という単位を無視することはできない。それは場合によっては「不愉快な制約」かもしれない。ナショナリズムを顕揚するにしても批判するにしても、われわれはナショナリストたらざるをえない制約を抱えているわけだから。
しかし上野氏は食い下がる。「われわれ感覚」を表象するものすべてをナショナリズムと呼ぼうというわけか。それなら自分だってナショナリストになってしまう。
小熊氏はこう答える。そうじゃない。「われわれ」といっても、国や民族ばかりではなくて、「地方」とか「女」とか、いろんな単位がある。「国家」や「民族」以外の「われわれ」を語る行為までナショナリズムと呼ぶ気はない。しかし現代社会では、歴史問題や年金問題など、国を単位に語らなくてはならないことだってある。そういう場合には、われわれはある意味では「ナショナリスト」たらざるをえない。ここで、なおそれを「ナショナリズムと呼ぶかどうかは各人の自由」だが。
小熊氏の「心がまえ」
この対談では自らの仕事にたいする小熊氏の「心がまえ」のようなものが率直に語られていて興味深い。
- 「まずは一つ一つの事例を見て、部分のリアリティを大切にしたい。しかし同時に、多くの事例をつなぎあわせて、幅広く共有できる普遍的なものに織り上げたい。だから吉本隆明でも竹内好でも、パーソナルな細かいところを見ながら、それが同時代においてどういう意味を持っていたか、また時代の流れのなかでどういう意味を持っていたかも見ようとしたわけです。一つ一つの章で完結した小宇宙をつくりながら、それをつなげて全体が構成されるような、マンダラみたいな感じになればいいなと思っていました」(p.288)
- 「私は戦前の人たちを書く場合でも、基本的には私がこの立場にいたらどうだろうかと思わないと書けない。一冊目の『単一民族神話の起源』のあとがきに、「一方的な書き方はしたくない、できるだけ追体験するようなかたちで書きたいと記したのですが、せめてそれが礼儀だと思うんです。そのこともあって、一貫してその人たちが置かれていた同時代的な文脈や制約は重視しているつもりです」(P.289)
- (上野氏による「語られた戦争体験だけでなく、語られない戦争体験が、実は戦後思想を決定したことがうまく説明されています」との指摘に答えて)「語られなかったものを描くわけですから、語られたことを描き尽くして、その空白部分として浮かび上がらせるしかなかったんですね」(p.290)
- 「良い悪いは別にして、間違ってしまった人から学ぼうという気持ちが強いんだと思います。判官贔屓という意味ではなくて、間違ってしまった人は、身をもって貴重な教訓を残してくれたと思うんですね。先人がどこでどう間違えたのかに関心があるというのは、『単一民族神話の起源』から一貫しています」(p.299)
- 「辟易する、やりたくないという感性が部分的にないと、こういう相対化の作業はできないですよ。そういう感性のない人だったら、完全に肩入れして酔ってしまうのじゃないかな。「丸山眞男先生のあとを継いで正しい国民主義を再興しよう」みたいな結論になってしまうかもしれない。それが悪いとは言いたくないけれど、私がやりたかったのはそういうことではない。あの本の末尾で述べた「ナショナリズムの読みかえ」というのは、「正しいナショナリズム」を提唱しているというよりは、「国家を超える思想」に読みかえることもできるかもしれない、ということですから」(p.310)
ちなみに、こういう語りは(少なくともわたしにとっては)「あーあ。ついカッコつけてイイコトいっちゃったぁ」という後悔の念とともにしか想起できないようなものなのだが、いつもながら上野氏は相手からそのような発言を引き出すのがじつにうまい(小熊氏がいま後悔しているのかどうかは知らない)。
「ナショナリズム批判」への批判
上野対談でも少し言及されていたのだが、こちらにまとめる。
- 「日本にナショナリズムが台頭してきて実に嘆かわしい」と考えるのも一種のナショナリズムである(「不愉快な制約」としてのナショナリズム)。だから、まるで自分がナショナリストでないような立場からナショナリズムを批判するのは、ナショナリストを他者化しすぎる危険性がある。いわば、ありもしない亡霊としての「彼ら」を立ち上がらせてしまうということ。
- 既存の「新しい歴史教科書をつくる会」の批判には疑問があった。そもそもほとんどがちゃんと調べずに書いている。小林よしのり氏の本を読んだだけで書いていたり、あるいはいきなりナショナリズムの一般論につなげてしまうものもあった。そうしたやりかたには疑問があって、だから「つくる会」幹部が書いたものや会誌などをできるだけ読んで調べてみた。
実際、これですごい大冊ができたわけで。感心。
「つくる会」
引用三つ。
保守主義、ニューライト、ポピュリズム
姜氏問う。「つくる会」のような運動は、いわゆる「保守主義」なのか、それとも高橋哲哉氏が言うような「ニューライト」なのか。
小熊氏答える。あえて一言でいうなら「ポピュリズム」ではないか。イメージとしてはエーリッヒ・フロムが描いた『自由からの逃走』のような現象。
小熊氏つづける。日本でポピュリズムが政治勢力として大きくなったのは最近の現象ではないか。戦前の日本はドイツのように近代化(大衆社会化)が進んでいなかったからポピュリズムは成立しえなかった。しかし、――正確にいつからかというのは簡単には決められないが、1968年の参議院全国区で石原慎太郎氏がトップ当選したのをひとつの画期として――いまや日本でも大衆社会型のポピュリズムが出現するようになった。
小熊氏さらにつづける。そのポピュリズムとナショナリズムの関係だが、いわゆる「地盤選挙」のようなものが崩れたほうがナショナリズムになりやすいことは事実だ。「郷土」の地盤選挙ではなくて、マスメディアがつくる「想像の共同体」である「ナショナル」な発想になるわけだから。また、「新中間大衆」を成立させていた社会構造が崩れ、階層分化の進展によっていわゆる「負け組」になった人びとの不満がたまってくると、「改革」「現状打破」のような威勢のよいスローガンが支持をえやすい。
姜尚中氏
疑問に思っていたり迷ったりしていることを素直に「小熊くん、どう思う?」と尋ねる姿勢がほほえましい(侮蔑的な意味はまったくない。むしろ率直で立派な態度だと思う)。ちなみに姜氏の最後の発言は下記のとおり。
ぼくも『日朝関係の克服』〔集英社新書――引用者註〕が売れれば、『〈民主〉と〈愛国〉』ぐらい大部の在日の本を書くよ(笑)。
新書ばかり出していないで、ぜひやっていただきたい。もちろんここでわたしは新書を馬鹿にしているわけではない。それはそれでいいのだけれど、言いたかったのは、姜氏にも『〈民主〉と〈愛国〉』くらい大部でインパクトのある「在日」にかんする書物を出してほしい、ということである。