哲劇メモ

吉川浩満(@哲学の劇場)の日々の泡

「言語の論理的分析による形而上学の克服」

カルナップ哲学論集

カルナップ哲学論集

某セミネールに使ったレジュメ。有名な論文の、たんなる要約(しかも不完全な)なので、その辺ご注意を。遊ばせておくのもなんなので掲載。

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【当該論文詳細目次】
1.序論
2.単語の意味
3.意味のない形而上学的用語
4.文の意味
5.形而上学的擬似言明
6.全ての形而上学の無意味さ
7.人生に対する態度としての形而上学

1.序論

形而上学の論敵

昔からいた(ギリシアの懐疑論者から19世紀の経験主義者まで)。彼らは形而上学が「偽である」(経験的知識と矛盾する)か、「不確かである」(人間の認識の限界を超越している)と判決を下した。

  • ※ギリシアの懐疑論者=ピュロン派(〜セクストス・エンペイリコス)
  • ※19世紀の経験主義者=マッハたち?(ちなみにヒュームは18世紀)

現代の論敵(論理実証主義

現代論理学(フレーゲ〜ラッセル)によって、精密な論理分析が可能になった点で旧版とは一味ちがう。

  • 肯定的結果=経験科学において、諸概念の形式的‐論理的‐認識論的結合関係を明らかにする
  • 否定的結果=形而上学を克服する(「無意味」を宣告する)

「無意味」の意味
  • ルーズな意味=主張したり問うたりするのが不毛な場合(例:「電話番号が3で終わる当研究会メンバーの平均体重は45kgである」)←しかしこれは厳密な意味では無意味ではない
  • 厳密な意味=単語の列が言明を構成しない場合(例:「無が無化する」)←後述
擬似言明

無意味な言明=擬似言明には2種類ある。

  1. 無意味な単語を含む言明(2で説明)
  2. 単語は有意味だが構文が間違っている言明(4で説明)

形而上学はこれらの擬似言明からなっている。

2.単語の意味

プロトコル命題(プロトコル文)

単語の意味は最終的にはプロトコル命題に還元される。また、その還元をとおしてこそ単語は意味を持つ。プロトコル命題とは、直接経験の記録(知覚や観察の結果を命題に記述したもの)。他の命題を検証する基盤となる命題。

検証主義

なぜ上のように言えるかといえば、単語は適用できたり検証できなければ空虚だから。たとえば誰かが、「世の中はティーヴィー(teavy)と非ティーヴィーからなる」「しかしそれを確かめる術はない」と言ったとき、「ティーヴィー」にかんする言明は空虚=擬似言明となる。

  • ※「およそ単語が意味を持つとするならば、それは○○という条件のもとでなければならない」と言明する論理実証主義の逆説的な超越論性(=形而上学性)。

3.意味のない形而上学的用語

形而上学は意味を欠いている

プロトコル命題に還元されえないような用語で言明をおこなうから。

「神」
  • 神話学的用法=はっきりした用法を持つ(シロ)
  • 形而上学的用法=擬似定義しか与えられない(クロ)
  • 神学的用法=それらの中間(グレー)

形而上学の諸概念(自我、本質、物自体など)は先の「ティーヴィー」と同類。

4.文の意味

ふたつめの擬似言明

有意味な単語からなるが、意味が生じない具合に結合されている。

  1. 「シーザーはそしてである」←構文法違反
  2. 「シーザーは素数である」←カテゴリー・ミステイク
文法的構文論と論理的構文論
  • 文法的構文論=日常言語の構文。これを利用して形而上学は誤りへと導く
  • 論理的構文論=フレーゲ〜ラッセルが開発制作した記号論理学の構文
  • 論理的構文論が建設されれば、形而上学は論理的に構成された言語では表現すらできないことがわかる

  • ※日常言語/自然言語への蔑視。哲学を日常言語/自然言語から引き離し、記号論理学を用いた論理的構文論によって再建するプログラム。

5.形而上学的擬似言明

ハイデガー形而上学とは何か』

「目下ドイツにおいて最も強力な影響を及ぼしている形而上学派」の講義録『形而上学とは何か』から引用し、「日常言語の有意味な文」「日常言語における意味から無意味への転化」「論理的に正しい言語」を示す。

  • ※件の『形而上学とは何か』からは、けっこうアトランダムに引用されているような気がする。一文二文だけとりだして分析できるとする考えかたは、後々に足元をすくわれることになる。

昔の反形而上学者たちとわれわれ(カルナップたち)のちがい

昔の人は形而上学を「単なる思弁」「おとぎ話」と貶めた。われわれは形而上学をそうはみなさない。おとぎ話の言明は論理と矛盾しないし、ただ経験と矛盾するだけだ。それらは偽だったとしても完全に有意味である。

  • ※ターゲットは、空想的なものや非現実的なものや宗教や芸術ではなく、あくまで形而上学

6.全ての形而上学の無意味さ

すべての形而上学は無意味

ハイデガーに適用した論理分析は、ほかのすべての形而上学にも適用できる。

  • ※「すべて」に突き進むのがおもしろい。

形而上学は不可能

有意味形而上学は不可能。それが「経験科学には近づきえない類いの知識」を発見し定式化するという課題を遂行しようとするかぎり。

有意味な言明

有意味な言明にはふたつある(大まかにいってカントの分析的判断/総合的判断に対応する)。

  • 分析的=トートロジーと矛盾
  • 総合的=経験的言明(「カルナップは1891年に生まれた」)

それでは哲学にはなにが残るのか?

言明でもないし、理論でもないし、体系でもない。方法だけ。論理分析の方法のみ。

7.人生に対する態度としての形而上学

ではなぜ人は形而上学に魅せられてきたのか?

それは擬似言明であることから「事態の記述」には役立たないが、「人生に対する態度の表現」には役立つから。たぶん神学の代用物として発達したのだろう。

  • ※この「たぶん」がおもしろい。論文(邦訳)30頁12行目と19行目。

形而上学はなぜ克服されねばならないか
  • 形而上学は「おとぎ話」であるから克服されなければならないのではない。

⇒それは「おとぎ話」ではない。「おとぎ話」は有意味である。

  • 形而上学は無意味であるから克服されなければならないのではない。

⇒たしかにそれは無意味であるが、「人生に対する態度の表現」としてはある程度役立ってきた。

  • 形而上学がなぜ克服されなければならないものであるかは、結局のところ、それが「やりたいことを不適切な仕方でやっている」からであり、また「実際にはやっていないことを、さもやっているかのように僭称する」からである。

形而上学は「人生に対する態度の表現」にほかならないのに、その理論的な言明スタイルをとおして「事態の記述」を装う。しかし、「芸術」にはそうした「自己欺瞞」がない。「人生に対する態度の表現」には芸術こそが適している。

形而上学者とは何者か?

ズバリ、「音楽の才能のない音楽家」のようなものである。

ニーチェの偉さ

ニーチェの作品は多くの部分が経験的な内容を持っている。たとえば「特殊な芸術的現象の歴史的分析」(『悲劇の誕生』)や「道徳の歴史的‐心理学的分析」(『道徳の系譜』)の場合。しかしながら、ほかの凡百の学者ならば形而上学倫理学をとおして表現するであろうような内容を表現するとき、彼は公然と芸術の形式(詩)を採用する(『ツァラトゥストラ』)。彼はその点で偉い。

終わり


「カルナップのデーモン」――昂ぶりと切なさ。

  • 論理実証主義のプログラムは「哲学にできること/やるべきこと/やってはいけないこと」(©A氏)をハッキリさせると宣言したが、そうは問屋が卸さなかった。かといって、そのプログラムが実現されなかったからといって、それでとりたてて満足してよいというわけでもない。(ソヴィエト社会主義共和国連邦のプログラムは「理想の世界」の構築を宣言したが、そうは問屋が卸さなかった。かといって、そのプログラムが実現されなかったといって、それでとりたてて満足してよいというわけでもない。)

  • 論理実証主義の「崩壊」は、「敵」からの攻撃によってなされたのではない。それは「経験主義を、もしくは少なくともある形での経験主義を、みずから奉ずる哲学者たち」(ジャック・ブーヴレス)による「批判的継承」によってなされた。

  • ※カルナップからクワイン、そしてデイヴィドソンへといたる師匠/弟子たちによる批判的継承の途でなされた「論理実証主義の崩壊(プラグマティズム化)」を追っていくことで、徒手空拳ながらも「生まれながらの形而上学者」(Natural Born Metaphysician)たるわたしたちの生と思考の実相をあらわすることができるかもしれない(大先生風に)。

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◇哲劇メモ > [哲学][メモ] カルナップほか
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