哲劇メモ

吉川浩満(@哲学の劇場)の日々の泡

会社はいろいろ、管理もいろいろ、訓練だっていろいろ、咲き乱れるの

複数の会社を渡り歩いてみると、(当然のことながら)管理と訓練の様態や程度もそれぞれ違っておもしろい。

経験したなかで、いちばん「なっていない」会社は、こんな風だった。管理する側(経営者、管理職)は立場上、会社の業績や経済の動向などを引き合いに出しながら、利潤を生み出し続けなければならないことを管理される側(平社員)に対して常に言い立てなければならない。しかし尻を叩かれる社員の方はそれをほとんどまじめに受け止めていない。もちろん、何らかの利潤を生み出し続けなければ自分が属している会社の存続ができなくなることくらいはわかっているが、だからといって働くこと自体を目的化して死ぬ気でやるようなことは馬鹿らしいと思っている。管理する側も、本気で管理と訓練に取り組もうと思えばいくらでもやることはあるはずだが、思いつかないのかあえて止めているのか、そこまでは踏み込まない。結果、管理らしい管理は出社退社時のタイムカードのみ、訓練らしい訓練は先輩から後輩への個人的な指導のみ。管理と訓練の重要性は叫ばれるばかりで、ほとんどスローガンのみにとどまっている。会社はもう長いこと「いつ潰れるか」と囁かれてきたが、いまでもなんとか命脈を保っている。これは昨今の企業論、マネジメント論から見たら噴飯ものの事態なのだろう。

逆に、いちばん「ちゃんとした」会社は、こんな風だった。管理する側(経営者、管理職)が、会社の業績や経済の動向などを引き合いに出しながら、利潤を生み出し続けなければならないことを管理される側(平社員)に対して常に言い立てる点では同じ。しかし、言い立てるだけではない。アメリカ仕込みの複雑な評価システムが適用される。全社員は四半期ごとにその期に達成させるべき「業績目標」を設定する(され)、期末にはそれぞれの目標の達成度で計られる「業績結果」に関する評価が行われる。評価システムは業績について適用されるだけではない。当該の社員が持っているとされる「能力」もまた対象となる。当該の社員の能力を多角的に評価するために、ひとりの社員に複数の評価者がつく。しかしたとえば評価者が同部署の同僚ばかりでは多角的な評価がなされないわけだから、評価者には上司、部下、同部署の同僚、他部署の同僚がすべて含まれなければならない。このようにして、社員として当然求められるべき諸能力についての評価がなされることになる。以上、「業績」と「能力」についての評価結果が総合されて、当該の社員の処遇(地位と金)が決せられることになる。なお、適切な評価がなされるために、すべての目標は厳密に数値化されなければならない。数値化された「業績目標に対する評価」と「実際の業績結果に対する評価」と「能力の評価」のポイントは、あらかじめ定められた数式に代入され計算される。そして当該の社員の処遇はそのポイントに応じて一意に決定される。なかなかよく考えられた巧妙なシステムである。(長くなるので訓練に関しては省略。)

……続けて言わなければならないことはたくさんあるが、思い出したら疲れてしまったので、今日はここまでとさせていただく。ひとことだけ言うなら、後者を経験した後に前者のことを思い返してみると、わたくしは不思議と心休まる気持ちがするということだ。ついでに問いも投げておこう。きみが会社勤めをするとしたら、どっちの会社がいい?