哲劇メモ

吉川浩満(@哲学の劇場)の日々の泡

フロートとNCC(Neural Correlate of Consciousness)


八雲出とのミーティングのために単車で出かけた。ミーティングと言っても実際は法螺の吹きあいや四方山話をするに過ぎないのだが、これは哲劇のもっとも重要な活動だ。

道の途中で給油をしようとスタンドに立ち寄ったところ、店員から「何か漏れていますよ」と指摘された。見ると、キャブレターからガソリンがどんどん漏れ出してくる。オーヴァーフローというやつだ。あわてているとみるみるうちにスタンドの床がガソリンの海と化してしまった。これではエンジンもかからないし、だいいち危険きわまりない。店員には詫びを入れ、やむなく単車を自宅に連れ戻した。

キャブレターはエンジンに空気とガソリンの混合気を送り出すためのパーツである。単車にとってガソリンが血液だとすれば、キャブレターは心臓だ。そうすると、清浄した空気をキャブレターに送り出すエア・クリーナーは肺だということになり、キャブレターから得た空気とガソリンの混合気を爆発させて動力に変換するシリンダーとピストンは筋肉だということになる。この筋肉は車体の前後に延び、前後の車輪を形作る。もちろんこれだけで単車が走るわけではなく、もっともっとたくさんの部品が必要なわけだが。当然ながら単車を操縦するライダーの存在も忘れるわけにはいくまい。

ミーティングの最中、今回のオーヴァーフローの原因は何だったのだろうと推測した。目星をつけていたのはキャブレター内部にあるフロートだ。これはフューエル・タンクからキャブレターに流入するべきガソリンの量を調節するための部品である。イメージしづらい場合は水洗トイレのタンクを思い出してほしい(最近は「タンクレス」の新型トイレも出回っているようだが)。水洗トイレのタンクの中に入っているフロートもキャブレターのフロートとまったく同じ原理で働く。タンク中の水が少なくなればフロートが下方に移動し、フロートと連動した弁が開く。するとタンクに水が流入する。タンク中の水が多くなればフロートが上方に移動し、弁が閉じる。タンク中の水が十分な量に達すれば、フロートと連動した弁は完全に閉じられ、水が流入しなくなる。それでもイメージしづらい場合は家の水洗トイレのタンクを開けてみてほしい(汲み取り式の場合はあきらめねばなるまい)。このフロートが機能しなくなったおかげで、キャブレター中には十分な量のガソリンがすでにあるのにさらにどんどんガソリンが流入する(オーヴァーフロー)という結果になったのではないかと考えたわけだ。家に帰って、オーヴァーフローの原因を探るべく、さっそく車体からキャブレターを取り外し、分解してみた。ビンゴ。はたしてフロートを支えるバーが外れ、フロートが動かなくなっていた。あとは当のバーも含めた各部品を適切に組み直し、テスト走行をしてみよう。これでうまくキャブレターが動くようになれば、今回のオーヴァーフローの原因は解明されたとみてよかろう。

さて。今回のオーヴァーフローの原因がフロートの不具合にあったとしよう。フロートの不具合のために単車は動かなくなった。そこから、単車の動力を生みだす「中枢」はこのフロートにほかならない、そう言うことはできるだろうか。もちろんできない。なぜできないのか。単車の始動はフロートを含めたさまざまな部品が互いに協働することではじめて可能になるからである。金のかかる部品とかからない部品、見た目に目立つ部品と目立たない部品、手間のかかる部品とかからない部品の区別はある。しかし、単車を動かす(単車に乗る)という実践的行為に照らして考えたとき、中枢と末梢という区別は何ほどのものでもなくなってしまう。キャブレター内のフロートのように地味な部品でも、それが機能しなければ単車は動かなくなってしまうのだから。こんなことはいまさら言うまでもないことなのだが、なぜ言うまでもないことをあらためて言わなければならないのか。それは、われわれが往々にしてはまり込んでしまう「中枢神話」とでもいうものについて考えたかったからだ。当たり前だが話は単車に限らない。たとえばコンピュータを考えてみよう。コンピュータの調子がわるい。急に電源が落ちてしまったかと思えば、しばらく何の問題もなく動いてくれることもある。そういう状態はあまりいい気分がしないものだ。何が原因だろうかと考える。真っ先に考えるのは、コンピュータをコンピュータたらしめているものとされる中枢部分だ。ソフトウェアで言えばまずオペレーティング・システム、次いで使用頻度の高いブラウザやメーラーなどのアプリケーション・ソフトウェア。ハードウェアで言えばCPUなどの演算装置、メモリやハードディスクなどの記憶装置など。しかし実際のところ不具合は電源コードの接触不良が原因だった、なんて話はよくあることだ。そんなとき、自分が悩まされてきたコンピュータの不具合はこんなつまらないことが原因だったのか、と思うかもしれない。しかし、コンピュータを使いこなすという実践的行為に照らして考えたとき、中枢としてのCPUや末梢としての電源コードなどという区別は何ほどのものでもなくなってしまう。それを「つまらないこと」と片づけてはならない。むしろそれは世の初めからわれわれの目の前にあった真理にあなたが忽然と気づいた経験として記憶に刻み込まれなければならない。それは大げさだが、とにかく人間的価値においてどんなにつまらなく思える電源コードでも、それが働かなくなると何もできなくなるということには気づかせてくれるはずだ。しかしこれも当たり前のことだ。しかしなぜ当たり前のことをあらためて言わなければならないのか。それは、人間の脳に関するわれわれの中枢神話にも話を接続してみたかったからだ。

心が脳から生まれるという信念は、現代のわれわれの常識に属することだろう。この信念を純化すれば、フランシス・クリック(DNAの二重らせん構造を発見したノーベル賞学者だ)とクリストフ・コックが提唱する「NCC(Neural Correlate of Consciousness)」の概念に行き着く。これは意識にとって関係のない脳の部位を削ぎ落としていけば、最後には意識の神経対応の核心部が見つかるはずだという話だ。その探究の過程ではたくさんのおもしろい発見がなされることだろうが、忘れてはならないのは、脳はそれだけを取り出して考えることのできないものだということだ。脳は身体の一部である。だからわれわれは徹頭徹尾実践的な形でしか脳と関わることはできない(単車に乗ったりコンピュータと動かしたりするときのように。しかし単車やコンピュータとは実践的な関係を絶つこともできる)。実践的行為に照らして考えたとき、中枢と末梢という区別は何ほどのものでもなくなってしまう。もちろん脳内の部位に何の区別も設けられないというわけではない。脳は高度に専門化された部位が互いに協働する組織なのだから。しかし、生きるという実践的行為において意識の中枢というような概念がいかなる意味を持ち得るのか、これは考えてみなければなるまい。脳の中の中枢と言わず、システムとしての脳こそが中枢と言っても同じことだ。単車の構造と機能の解明には、単車についての徹底した分析が必要だ。しかし、単車が動くためには操縦者が必要だ。それで終わりか。いや、大地があり、道があり、大気があることも必要だ。つまり世界が必要だ。脳の構造と機能の解明には、脳についての徹底した分析が必要だ。しかし、脳が働くためには身体が必要だ。それで終わりか。いや、世界が必要だ。

というわけで、われわれは振り出しに戻ってきた。振り出しに戻ったところで眠るとしよう。