哲劇メモ

吉川浩満(@哲学の劇場)の日々の泡

山形浩生さん(cakes)

評論家の山形浩生さんがcakes連載「新・山形月報!」にて、拙著『理不尽な進化──遺伝子と運のあいだ』をとりあげてくださいました。ありがとうございます!

おー。進化論におけるグールドの敗北を明記した上で、その敗北を救うだけでなく、それをぼくたちみんなが抱える問題の鏡として使い、進化論やあらゆる学問の基盤にまで迫ろうという力業。しかもその中で、グールドが実はあまり評価されていない小者であることも明記しつつ、でもまさにそれが、大物ではないぼくたち自身にもつながってくるという巧妙なつくり。ぼくは進化論の哲学とかその手の話は、基本的にまぬけだと思っているんだけれど、本書で初めて、こうしたことを考えること自体にも少し意義があるかも、と納得するに到った。
本書の終章はある意味で、ひいきの引き倒しによる過剰な深読みじゃないかとも思う(ついでに言うと、偶発性と適者生存との共存は、長期と短期で話を分ければそんなに大仰な話にしなくてすむんじゃないかとも思う)。

拙著の可能性を最大限に(寛容に)汲み取ったうえで、それにたいする根本的な留保(それはそれで認めざるをえない)もしっかりと明記されています。たいへんうれしい書評でした。

私にとって、この本は(まあ、どの本だってそうですが)一生に一度だけの、私が真人間になる(戻る)ために登り切らなければならなかった(そして登り切った後には捨て去らなければならない)梯子のようなものでした(さらに言えば、それを多くの人びとも必要としているだろうと思い、この本を書きました。もとはといえば『心脳問題──「脳の世紀」を生き抜く』だってそのつもりで書いたのですが)。だから、もう同じような本を書きたいとは思いません。じゃあどうするか。いみじくも記事の末尾、拙著と高野文子さんの『ドミトリーともきんす』を対照して述べられているとおり、

ある意味でこのマンガは、冒頭で紹介した『理不尽な進化』で強く主張されている人間的、歴史的な部分へのこだわりに微笑しつつも、それを平然と無視できている驚異的な一篇でもあるんじゃないかとは思う。

こんな風にアートとサイエンス、そしてテクノロジーについて書いていけたら、そりゃたしかにもう最高です(が、結局また別の梯子を必要とすることになったというオチになるかもしれず、つまり高野文子的あり方は死ぬまで憧れにとどまるかもしれず、そこのところは予断を許しません)。

現場からは以上です。

理不尽な進化: 遺伝子と運のあいだ

理不尽な進化: 遺伝子と運のあいだ

ドミトリーともきんす

ドミトリーともきんす