哲劇メモ

吉川浩満(@哲学の劇場)の日々の泡

生きているのはひまつぶし


深沢七郎」という文字を目にするたびに、また、「フカザワシチロー」(*1)という音を人から聞いたり自ら発したりするたびに、自動的にわたしの頬はゆるんでしまう。それが言祝ぐべき事柄なのか、はたまた憂慮すべき事態なのかはよくわからないのだが、ともかくいつの頃からか、そんな身体になってしまった。脳の可塑性(plasticité)とは斯様におそるべきものである。

しかしそれだけではない。さらにやっかいなことがある。「深沢七郎」「フカザワシチロー」によって自然と頬がゆるんでしまうのは先に述べたとおりだが、さて実際に彼の作品の頁をめくりはじめると、こんどは逆に、さっきまで緩みっぱなしだった頬がみるみるこわばりはじめる。そして能面のように固い表情になったまま顔の筋肉が動かなくなってしまうのである。こんなものを書かれてはたまらない、(ソリャはじめっから勝てるナンて思ってもいないのだが)とうてい勝てないおっさんがここにいる、なにが駄目なのかはぜんぜんわからないがもう駄目だ、ああ駄目だ駄目だぜんぜん駄目だ、ええいままよ、ぼくも死ぬからみんな死んでしまえ、死んでしまえるのはありがたいことだナァ(飛躍に次ぐ飛躍)、という心持ちになってしまうのである。

しかしそれだけではない。さらにさらにやっかいなことがある。先の「飛躍に次ぐ飛躍」がすでにその前兆であるともいえるのだが、本を閉じると、またふたたび自動的に頬が緩みはじめるのだ。「フカザワシチロー」「フカザワシチロー」と唱えてみる。すると、そう唱えているだけで極楽浄土にいけるような気にすらなってくるのである。これが世にいう、「シチロー真宗」(*2)である。

  • (*1)「深沢七郎」の名を「ふかわ・しちろう」と読むのか、あるいは「ふかわ・しちろう」と読むのか、いまだわたしにははっきりしない。「人物情報の調べ方」@一橋大学図書館によれば、『国立国会図書館著者名典拠録』では濁音の「ざ」/『日本書籍総目録』、新潮文庫ちくま文庫の奥付でも濁音の「ざ」/しかし中公文庫、文春文庫の奥付では清音の「さ」/1987年8月18日に亡くなった際の新聞記事は濁音の「ざ」を採用と、なんだかバラバラである。さらにややこしいことに、いまわたしの手元にある中公文庫と文春文庫では(一橋大学図書館の指摘に反して)濁音の「ざ」、新潮文庫ちくま文庫では(これも一橋大学図書館の指摘に反して)清音の「さ」である。つまり一橋大学図書館の指摘とちょうど逆になっている。ひょっとすると一橋大学図書館の人が勘違いして逆にしてしまったのかもしれないし、または出版社のほうで表記の変更があったのかもしれない(出版社の各陣営において「あっちが濁音だからこっちも合わせようよ」/「あっちが清音だからこっちも合わせようよ」という変更が同時に起こってしまったとか――ンなこたァないか©タモリ)。ちなみに本書(光文社)の表記は濁音の「ざ」である。ちなみにわたしはといえば、なんとなく濁音の「ざ」で「ふかざわ・しちろう」と呼んでいる(原因はわからないが、たまに清音の「さ」になることもある)。
  • (*2)すみません。いまつくりました。

前置きが長くなった。深沢七郎はわたしにとってそのくらい(どのくらい?)特別な作家なのだが、このたび光文社より、未発表作品集が刊行された。

生きているのはひまつぶし 深沢七郎未発表作品集

生きているのはひまつぶし 深沢七郎未発表作品集

どのような経緯からこの作品が編まれたのかは知らない。遺稿管理はなにかとたいへんだという苦労話も聞く。しかし、彼の単行本が刊行されるのは1987年の『夢辞典』(文藝春秋)以来、じつに18年ぶりのことである(作品集や文庫は除く)。とにかく、これまで読んだことのなかった文章を読めるのは、わたしにとってはたいへんにうれしい。

【目次】
I 死んだら
II 土とたわむれ
III 男と女と
 【発掘エッセイ】我が享楽の人生の道
IV 都会と田舎と
V 肩書
VI 小説を書く
VII 旅する
 【発掘エッセイ】予想外の結末(私の外国旅行)
VIII 遊ぶ
IX 喰う
X 涙する
XI 忘れる
 あとがきにかえて マイ・スター深沢七郎讃(白石かずこ
 一研究者からのメッセージ(金子明)

ブックデザインもなかなかユニークである。表紙カヴァーと帯は下記のとおり。

上の帯は人目をひくためのご愛嬌というものかもしれないが、驚くべきはカヴァーの裏面。彼の写真でびっしりと埋め尽くされている。本書の巻末では掲載された写真の一枚一枚についての説明と、「できる限り撮影者を捜しましたが、不明の写真が数点ありますので、お心当たりの方は編集部までご一報をお願い致します」という但し書きがある。お心当たりの方はご一報されたい。


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深沢七郎集〈第1巻〉

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樽山節(祖母の昔語り)

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