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哲劇メモ

吉川浩満(@哲学の劇場)の日々の泡

山本貴光『文体の科学』新潮社

文筆業(と哲学の劇場*)の相棒・山本貴光くんが新著『文体の科学』を刊行しました。みなさまにもこの労作を推薦します。
*ウェブサイト「哲学の劇場」は現在停止中ですが、ドメインはちゃんとお金を払って維持しています。近いうちに再開予定。近いうちに……。 再開しました

  • 山本貴光『文体の科学』新潮社

文体の科学

文体の科学

冒頭で二つの疑問が提出される。

  1. どうしてただ一つの文体ではなく、多様な文体があるのか。
  2. 文の姿かたちについて考える際、意味内容以外の要素を無視してしまってよいのだろうか。

たしかに私たちは、それとして意識するかどうかはともかくとして、じつに多種多様な文章に触れている。小説と論文ではかなり違うし、法律の条文や広告の惹句、家電の取扱説明書、道路標識、SNSの文章なども、それぞれずいぶん違っている。コンピュータプログラムのソースコードにいたっては、パッと見では(私には)文章に見えない(が、れっきとした文章である)。とくにこの十年くらいのあいだに、メディアの多様化にともなって、文章を読むという行為もずいぶんと多様化した。

いったいなにが違うのか。語や文の「配置」だ。それが本書のいう「文体」(スタイル)である。では、なぜそんなに文体が違ってくるのか。このことを考えようとすると、従来の文体論(や文章指南)には飽き足らなくなってくる。なぜなら、それらの多くは文章の意味内容については教えてくれるが(たしかにそれも一種の「配置」についての考察ではある)、それ以外の諸条件については教えてくれないからだ。それ以外の諸条件とは、とりあえずひとことで言えば、語や文が一定の時間と空間にその位置を占める物理的諸条件のことである。つまり、文章がどんな物質にどんな状態で表されているのか、文章がどのような物質的条件で実現されているのか、ということだ。

そこで本書の出番である。本書は先の二つの疑問を携えて、対話文、法律の条文、科学書や科学論文、辞書、批評、小説等々に現れるさまざまな文章を眺め、そして読み込んでいく。それで、疑問にたいする答えはどうなったか。前者の問いについていえば、さまざまに異なる文章の目的とその媒体が、それぞれ最適の文体を自ら選びとる。だからこそ一つの文体ではなく、多様な文体が存在するのである。そして後者の問い、つまり文の姿かたちを考える際に意味内容以外の要素を無視してしまってよいのかという問いについては、もちろん、無視してはいかんということになる。なぜなら、一定の時空間に場所を占める有限な存在である私たちにとって、文章とはすなわち、物質と精神(記憶)のインターフェイスにほかならないからだ。

とはいえ、二つの疑問にたいする著者の答えを以上のように簡便にまとめたところで、本書の魅力はまったく伝わらないだろう(お気づきのとおり、そもそも、そんなことはすでに目次と帯に書いてある)。本書の魅力は別のところに(も)ある。以下、それについて述べたい。

この種の本にはおおまかにいって説得型と触発型の二種類があるのだとすれば(いま考えた)、本書が属するのは明らかに後者の触発型である。読んでいると、これまで自分が読んだものや書いたものについての、さまざまな記憶が呼び戻される。場合によっては、本文の論脈と関係なく心が千々に乱れたりもする。そのような意味で、本書はじつに出来のよい触発装置である。

どうして出来がよいのか。思うに、私たちがふだん何気なく接しているさまざまな文章にかんして、本書が「見られているが気づかれていない」(seen but unnoticed)ことを明るみに出してくれるからではないだろうか。解きがたい謎を解くでもなく、闇から闇へ葬り去られた事実を発掘するでもなく、驚天動地の主張(とその説得)を行うでもなく、あくまで「見られているが気づかれていない」レヴェルの事象(文体の多様性)に一貫して照準することで、本書は良質の触発装置になっているのである。

それだけではない。本書によってもたらされる触発は快楽をともなう触発である。これは著者の博覧強記によるものだろう。思わず「ぜんぜん知らなかった」と膝を打つような事実や史実がいい案配で配合されることで、この触発が、既知と未知のあわいを縫うような快感となるのである。本書においては、この「見られてはいるが気づかれてはいない」事柄と、「見たことも気づいたこともなかった」事柄が拮抗するバランスが絶妙であり、それが読書に愉悦をもたらしているように思う。恥ずかしながら私も、「論理」「批評」という言葉の由来や、英国王立協会が国立の機関というわけではないことなど、さまざまなことを教えられた。しまいには、スマートフォンを片手におもしろそうな本や映像作品を図書館で予約したり書店に注文しながら読んでいく羽目になった。クレジットカードの請求額が心配である。

以上が、私の感じた本書の魅力であり、みなさまに本書をお薦めしたい理由である。本書によって語や文の姿かたち(物質的条件)への注視のしかたを学んだなら、本書を閉じて別の本をひもといたときにも、これまで得られなかったような触発が得られるようになる気がする。

最後に、個人的な感慨をひとつ。20年以上もつるんできた文筆業の相棒である私が見るに、彼が本書を書くことになったのは必然であった。本書の帯に「文体は人なり。」とあるが、まさに著者の山本貴光その人こそ、この言葉を余すところなく体現した存在である。いちどでも彼の「文体」──文章の意味内容だけではなくその物質的要素も含めた、本書の意味での「文体」──に接したことがある人ならば、これを容易に納得できるであろう。それが端的にあらわれるのが彼の手書きの手紙である。精巧なカリグラフィーのようなその書き文字(私の妻はこれを「貴光フォント」と呼んでいる)、そしてそのキュートな文字の姿かたちに似つかわしい丁寧さと親切さにあふれた文章の意味内容にふれるだけで、まるで紅茶に浸したマドレーヌを口に含んだとでもいうように、彼にまつわるほかの物質的諸要素、たとえば大正時代から抜け出してきたような風立ちぬ風の召し物と佇まい、使い古したグローブトロッターの革の鞄やモレスキンの手帖、そして大江健三郎メガネといった、彼をかたちづくる「スタイル」の全体が一挙に私の灰白色の脳細胞へと押し寄せてくるのである。私は数多の人びとがそのような彼の「文体=スタイル」の虜になるのを隣で(指をくわえて)見てきた。たとえば文化系女子であるとか人文系中年男性といった種族ならばイチコロであろう。そこで虜が味わうのはほとんどエロティックな快感である。もしこれを否認する不届きな虜がいようものなら、精神分析でとことんまで追い詰めてやる(って私はなぜ逆ギレしているのであろうか)。

ともかくそういうわけで、私は『文体の科学』を推薦します。なお、同書をご注文の際には、ぜひ私の新刊『理不尽な進化──遺伝子と運のあいだ』(朝日出版社)も同時にセットでお買い求めください。

理不尽な進化: 遺伝子と運のあいだ

理不尽な進化: 遺伝子と運のあいだ