哲劇メモ

吉川浩満(@哲学の劇場)の日々の泡

「説明」「理解」「解釈」――リクールとローティ


説明と理解」つづき。

リクール

リクールは、説明と了解という二つの用語に二つの認識論的立場(それぞれ自然科学、人間科学)を割り振る二分法を疑問視する。そして、これらの用語を対立させるのではなく、弁証法的な関係に置き換えようとする。

リクールはこの弁証法的関係を、それぞれ認識論的/存在論的に下記のようにまとめる。

認識論的平面。説明的方法と理解的方法という二つの方法があるわけではない。説明だけが方法的であり、理解は非方法的である。理解という非方法的な契機は、説明という方法的契機に先行し、そして説明を包含する。つまり、あらかじめ研究対象の理解という契機がなければ説明は開始されないし、また説明は全体として理解されなければ意味不明なままにとどまる、ということ。でも説明が受動的にとどまるかというとそうではなくて、それは新たな理解をうながす。つまり、理解は説明を包含し、説明は理解を展開する。

存在論的平面。理解という言葉は両義性を帯びている。それは科学的説明に先行し包含する非方法的契機を意味していると同時に、科学的説明よりも根源的なレヴェルで、人間が「存在するもの全体」に帰属していることを理解することをも意味する。

(解釈学的)哲学は、存在への人間の根源的帰属関係を明らかにする。また同時に、科学が要求するような存在への「疎隔化」(対象化)の動きをも明らかにする。

以上があらまし。(解釈学的)哲学は、いかなる存在の対象化(認識論的な「説明/理解」の次元)にも先行する、根源的な存在への帰属関係(存在との真理的関係)を証言する(唯一の)営みということになっている。哲学は、「方法」という概念そのものを「存在との真理的関係」という根本的概念に従属させうる能力をもたなければならない、と。

ローティ

しかし、同じく「認識論から解釈学へ」を唱えたローティは、上記のリクールとはかなり異なった説明/理解の、また哲学の描像を提出する。

ローティは説明/理解の二者択一を拒絶する。彼によれば、この対立は解決すべき問題などではなく、単に受け入れるべき違いにすぎない。これは、科学にたいしてなされる下記のふたつの異なった要請への応えかたの違いである。

  1. それは、状況の予測と制御に役立つような、状況にかんする記述を含まねばならない
  2. それは、われわれがなにをなすべきかを決断するのに役立つような記述を含まねばならない

要は、なにを望んでいるのか、なにが求められているのか、ということ。そして、当の説明はその望みや求めにたいして役に立つのかそれとも的外れなのか、ということ。一方だけが物事の「本当の」姿を記述できるとか、一方だけがありうる方法だとか、一方がより重要だとか言い立てる必要はない。

予測と制御が目的である場合と、評価が目的である場合とでは、求められる説明/理解が異なる。たとえば、爆弾の威力がおよぶ範囲を予測する場合と、爆弾が存在する世の中をどう評価するかを考える場合。

もっとも、人間を記述するためにもちいられる用語はすべて「評価的な」用語になるということはたしか。記述はなんらかのかたちで「理解」されるということ。しかし、このような理解の根源性をどう理解するかという点でローティはリクールと大いに異なる。

リクールの「理解は説明を包含する」「人間は存在に帰属している」という言明にはローティも同意するだろうが、しかし、それはローティにとっては単に確認すべき事実にすぎないだろう。彼はこの事実に「哲学的意義」を見出したり、それに立脚した形而上学的主張をなそうとはしないだろう。それは「哲学だけが人間の「本当の」姿を理解することができる」と主張することと同じであり、それでは元の木阿弥になってしまうからだ。

だから両者の「解釈」にたいする考えかたもおのずと異なる。ローティにとって解釈とは、人間の根源的な存在様式を了解する営みというよりは、単に(その時その場の目的にたいして)役に立ちそうなボキャブラリーを探してまわる営みだということになる。

◇関連記事:[本][哲学][メモ][概念] 説明と理解
http://d.hatena.ne.jp/clinamen/20050621/p2