哲劇メモ

吉川浩満(@哲学の劇場)の日々の泡

ビビンバボウル


 

※左:ビビンバ
※右:ボウル

誠に勝手乍ら回想させて頂きます。

先日、友人からボウルでカレーを食らう話を聞いた。それで思い出したことがあるので、ここに書きとめておこう。あまり知られていないことだが、わたくしもボウルには格別の執着があるのであるのである(©大隈重信)。

わたくしの祖母は毎日調理用のステンレスボウルでビビンバ(*1)を食べていた。ナムル(*2)を和えたボウルにごはんをぶち込み、柄の長いスプーンでかき混ぜ、それをそのまま食べる。わざわざ茶碗に盛るのが面倒くさかったんだろう(いわんや石鍋をや、である)。

ここで、そもそもボウルが云々以前に、「えっ、毎日ビビンバ?」と思う人もいるかもしれない。在日朝鮮人一世の彼女にとっては、ビビンバを毎日食べるというのはべつに特別なことでもなんでもなかったのである(もちろんビビンバだけを食べていたわけではない)。その点、朝鮮の家庭料理から遠く離れて育てられた三世(*3)のわたくしにとって、ビビンバはいまでも特別な(貴重とか高価という意味ではなく、ふだん食べないという意味)食べものである。

で、それがどうしたんだ、ということなのだが。

要は、その祖母のビビンバボウルがうまそうに見えてしかたがなかったってこと。

まだ子どもであった当時のわたくしは、育ちざかり(*4)の餓鬼によくあるように、日々これ肉、肉、断じて肉!(©ショーペンハウエル)の世界を生きていて(*5)、だからビビンバなんていう野菜野菜した食べものにはまるで興味がなかったはずなのだが、祖母のビビンバボウルだけは例外であって、見ているとどうしても食べたくなり、よくわけてもらったものである。もちろん食べてみればなんてこたあないビビンバなわけだが。なんだろう、無骨な調理用器具からそのまま食らうというところに、ある種の非日常的なハレ気分(違)を感じていたんだろうか(どうなのか>自分)。

なんでそんなにうまそうに見えたのかよくわからないのだが、とにかくまたあのビビンバボウルを食べたくなった夜中の3時であった。

ところで、この日記を書きながら、以前にも祖母について書いたことがあったのを思い出した。下記はちょうど7年前に書いた哲劇の拙文。

祖母も死んでしまった。このころはまだ元気だったんだなあ。

  • (*1)米飯の上に野菜の和え物を中心とした種々の具をのせて食べる朝鮮料理。ピビンパプ。(『大辞林三省堂) 表記にはいろいろあるのだが、とりあえずここでは「ビビンバ」とする。
  • (*2)朝鮮料理の一。大豆もやし・ゼンマイ・ホウレンソウなどのあえもの。(『大辞林三省堂
  • (*3)ルパンではない。体型ちがうし(関係ないが
  • (*4)じつは(意に反して)現在ますます育ちざかりなのだが。orz ……しかし、いまはそれが問題なのでは断じてないゆえ、現在のわたくしが育ちざかりであることにかんしてはこれ以上の追及はご容赦いただきたい。
  • (*5)これも現在でもそうなのだが。

【追記】わたくしがいままでに出会った最高のステンレスボウルは柳宗理のもの(写真参照)。これはすばらしい。普通のボウルより底面積が小さくて側面の傾斜が強い。じつに使い勝手がよく、またいつまでも飽きさせないデザインである。