哲劇メモ

吉川浩満(@哲学の劇場)の日々の泡

書かれたこと(/書かれなかったこと)

良質な解説書というのは読んでいて気分がいい。アレアレという間に、ものすごい勢いでかしこくなったようなつもり(=錯覚)になれるから。

でも、そうした書物を閉じたときにいつも浮かぶのは、「ではどうして(解説の対象となった)「原典」はあのように書かれなかったのか(解説書のように書かれなかったのか)/あれが書かれなかったのか(解説書に書いてあることが書かれなかったのか)」という素朴な疑問だ。原典にはたいてい(*1)、著者がよっぽどの無能(俺様のことか)か、またはうっかり八兵衛(同上)か、はたまたその両方(同上。ていうか大きなお世話だ)でもないかぎり、その書物が「そう」書かれなければならなかった(「ああ」書かれるのではなく!)という必然性がある(*2)。

いまさらぼくが指摘するまでもない、ほんとうにあたりまえのことなのだけれど、書かれたものというのは、「それ」が書かれたというまさにそのことによって、「あれ」が書かれなかったということ、つまりそこに書かれなかったことの全体をも示してくれる(*3)。

原典のある箇所を指して、とっても座りのよい「いい言葉」が発せられて、それにいったんは賛同するとしても、そのあとにはつねに、「しかし著者はなぜあのように言わなかったのか/あれを言わなかったのか」ということに立ち返っていきたい。そうでないと、書かれたのはあくまでも「それ」であり決して「あれ」ではない、という作品の物質性が見失われてしまうからだ。

もちろん、良質な解説書は必要だ。それがなければ、ぼくのような凡人は哲学の原典に取り組む勇気をなくしてしまうかもしれない。でも、上記の理由から、解説書を読んだあとには必ず原典の物質性に立ち返る必要があるように思う(*4)。良質な解説書の効能は、いい気分にさせてくれることだけでなく、そのような往復運動を駆動させてくれることにもあるのだろう。

  • (*1)必ず、でもないとは思うのだが。
  • (*2)草稿段階で途絶したプロジェクトなどになると事情は複雑になるが。
  • (*3)同上。
  • (*4)もちろん、だれにも必要というわけではない。そのような読みかたを欲しない人にとっては、それはどうでもよいことだ。