たいていのこと(世人と責任)
世人はいたるところに居合わせてはいるのだが、しかしそれは、現存在が決断を迫るときには、いちはやくつねにこっそりと逃げ出してしまっているというふうに、居合わせているのである。けれども世人は、すべての判断や決断を前渡ししておくゆえ、そのときどきの現存在から責任を取り除いてやる。世人は、「ひと」が不断に世人を引合いに出すということを、いわば苦もなくやってのけうるのである。世人はいとも容易にすべてのことの責任を負いうるのだが、それは、誰ひとりとして或ることのために責任をもつ必要のある者ではないからなのである。世人は責任をもつ必要のある者でつねに「あった」のだが、それにもかかわらず、もはや「誰ひとりとして」責任をもつ必要のある者では「ない」と、言われうるのである。現存在の日常性においては、たいていのことは、われわれがそれについて、誰ひとりとして責任をもつ必要のある者ではなかったと言わざるをえないようなことによって、ひきおこされてゆくのである。