テクノロジー
資本や「所有関係」ではなく、むしろテクノロジー自体に本質的にこのような加速が含まれているのではないのか。つまりは空虚な個人を、「人格」のもとに、「スター」のもとに、糾合し、断片化された事物を世界として再編していくような力が、テクノロジー自体の中に含まれていないか。
ベンヤミンの意図と異なって、ボルシェヴィキやイタリアの先鋭的な革命家たちがこぞって、マリネッティを賞賛したのは、まさしくテクノロジーが、資本ではなく、詩に、つまりは感覚的衝撃の表現によってこそ左右されるからではなかったか。彼らは、社会主義に必要な技術との関係が、「所有関係」からは到来せず、むしろ詩から来ると考えていたのではないか。
前掲書、p.41
ボルシェヴィキたちにとっては、所有関係とテクノロジーは一体のものだった。だからこそ彼らは、テクノロジー自体の生理を、あるいは詩を必要としたのである。つまりは、詩だけが人間をテクノロジーと一体にする、つまりは人間にとってテクノロジーとは詩にほかならないからだ。
ゆえに、テクノロジーの外部に、もしくはテクノロジーとは別に、文化や歴史は存在するのか、と問うても意味がないのである。
むしろ、詩の外側に、詩から逃れて、テクノロジーは、存在しえるのか、と問い返すべきなのだ。
アドルノのアフォリズムをを書き換えよう。アウシュヴィッツ以降に叙情詩は存在しえないのではない。アウシュヴィッツは詩なのだ。
前掲書、pp.45-46
アメリカが帝国であるのか、ないのか。世界帝国は完成するのか、完成するわけがないのか、というような問いは二次的なものである。遂行しているのは、アメリカが勝利しようが、ヨーロッパが勃興しようが、あるいは中国が、中東が台頭しようが、起きている出来事は、たった一つの事でしかありえない。テクノロジーそれ自体の自己運動、自己発達がもたらすダイナミズム。
アーレントとバーリンのやりとりを取り上げながら、本書で、人間にとってテクノロジーの外部は在り得るのか、得ないのか、ということを再三問うた。ここで、今一度、強調しておかなければならないと思うのは、人間にとってテクノロジーの外部はありえないということの確認は、にもかかわらず超越論的な外部を構成するのか、いなか。ということである。構成するとしても、それは電子羊の夢にすぎないのだろうが。夢は夢なのだから。
前掲書、pp.282-283