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哲劇メモ

吉川浩満(@哲学の劇場)の日々の泡

スタンリー・キャヴェル、邦訳刊行

  • スタンリー・カベル『センス・オブ・ウォールデン』齋藤直子訳、法政大学出版局、2005
センス・オブ・ウォールデン (叢書・ウニベルシタス)

センス・オブ・ウォールデン (叢書・ウニベルシタス)

ついに...。 アメリカの哲学者スタンリー・キャヴェルの研究、紹介、翻訳で孤軍奮闘されている齋藤直子氏の手になる邦訳。

ソロー『森の生活』を、単なる牧歌的生活の記録、自然回帰のための教養書としてでなく、多様かつ多層的なことばの交響する〈ことばの洗礼〉の書として、書くこと・読むことについての〈英雄的書物〉として、読み解く。またカント、ウィトゲンシュタインハイデガー、東洋思想との対話を通じて、その哲学的な美と精密さを浮き彫りにする一方、「市民性」の教育の書として再生させる。(版元紹介文)

お待ちしておりました。ありがとうございました。>齋藤さん、法政大学出版局さん

次は『The Claim of Reason: Wittgenstein, Skepticism, Morality, and Tragedy』『Philosophical Passages: Wittgenstein, Emerson, Austin, Derrida』『Contesting Tears: The Hollywood Melodrama of the Unknown Woman』あたりの日本語訳が読みたいなぁ(他力本願

The Claim of Reason: Wittgenstein, Skepticism, Morality, and Tragedy

The Claim of Reason: Wittgenstein, Skepticism, Morality, and Tragedy

Philosophical Passages: Wittgenstein, Emerson, Austin, Derrida (Bucknell Lectures in Literary Theory)

Philosophical Passages: Wittgenstein, Emerson, Austin, Derrida (Bucknell Lectures in Literary Theory)

Contesting Tears: The Hollywood Melodrama of the Unknown Woman

Contesting Tears: The Hollywood Melodrama of the Unknown Woman

追記

ちなみに、わたしがキャヴェル氏に関心をもちはじめたきっかけは、飯田隆氏の次の文章に触れたことによってでした(『現代思想の冒険者たち07 ウィトゲンシュタイン――言語の限界』の本文末尾)。

哲学の現在における、ウィトゲンシュタインの遺産のもっとも正統的な継承者として、私が深く尊敬するアメリカの哲学者スタンリー・キャベルの最近の文章に、つぎのような一節がある(キャベル「精神分析と映画」)。

哲学は存在するのかという問いこそ、哲学がその責務を負うべき唯一の問いだと時には思われてしまう者、哲学とは何であるか、それはそもそも存在するのかという問いに心を配らなくなることは、哲学を捨てることであり、それを論理や科学や詩や政治や宗教に受け渡してしまうことだと考える者、私はそうした者のひとりである。哲学の存在についての問いこそが哲学の唯一の関心事であるということ、これが、ウィトゲンシュタインハイデガーの仕事が教えることである。

ウィトゲンシュタインのこの教えをどう生かすか、これこそが哲学の将来を決すると言っても言い過ぎではないような気がする。(飯田隆現代思想の冒険者たち07 ウィトゲンシュタイン――言語の限界』講談社、1997、pp.319-320)

もう8年も前のことになりますが、この文章を読んだときはしびれたなぁ(同時に、ひとの文章の引用で自著を結んでしまう飯田氏もいろんな意味ですごいなぁと思ったのだった)。

ウィトゲンシュタイン―言語の限界 (現代思想の冒険者たち)

ウィトゲンシュタイン―言語の限界 (現代思想の冒険者たち)