読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

哲劇メモ

吉川浩満(@哲学の劇場)の日々の泡

伯父の「帰国」運動


(カリスマ)編集者A氏が、ある書評の存在を教えてくれた。

評者は、名著『コリアン世界の旅』野村進。書評の対象となったのは、『帰国運動とは何だったのか――封印された日朝関係史』という本。

  • 高崎宗司、朴正鎮 編著『帰国運動とは何だったのか――封印された日朝関係史』平凡社、2005

帰国運動とは何だったのか―封印された日朝関係史

帰国運動とは何だったのか―封印された日朝関係史

野村氏はこんな質問から書評を書き起こす。

唐突ながら、質問をひとつ。在日コリアンのルーツを辿(たど)ると、朝鮮半島の北と南、それぞれの割合はどのくらい?
五対五? 北六、南四? 逆に北四、南六? 残念、いずれも不正解。実のところ、在日の九割は南、つまり現在の韓国にルーツがあるとみられている。

「そうなると、」と野村氏はつづける。十万人ちかくもの在日が北朝鮮に「帰国」した、いわゆる「帰国運動」とはなんだったのか? これはまるで、戦後の日本が南北に分断されたとして、九州出身の在米邦人とその家族が親類縁者も知り合いもいない北海道に移住するようなものじゃないか、と。

 *-*

わたしは物心がつくころには自分の家が「みんなの家」とはちがうことがわかっていた。つまり自分の家が「在日」の家であるということがわかっていた。というかむしろ、自分の家がみんなの家とちがうことに気づいたことが「物心がつく」きっかけになったといったほうが正確なのかもしれない(その辺のことはよくわからない。わかるはずもないのだが)。

ちなみに、子ども時代のわたしは自分というものを「自分と誰か」という区別にもとづいてではなく、また「自分とみんな」という区別にもとづいてでもなく、あくまで「自分の家とみんなの家」という区別にもとづいて、つまり「みんなの家とはちがう家の一員(である自分)」として位置づけていたように思う。近所には在日の家庭がなく(それがあればまた変わっていただろう)、わたしはたいてい「一校に一家」の在日であった。自分ん家で出される食べ物やなされる行事がちがうと気づくことで、「みんなとちがう家の一員」という認識が生まれたのだろう(おそらく。これもいまとなってはよくわからない)。(*1)

話がそれた。

さて、物心ついてからもしばらくのあいだ気づかなかったことがある。それは、わたしの父には兄がいるらしいということだった。それまではずっと自分の父親は長男だと思い込んでいた。父がつねに家長っぽい役割を担っていたからである。

それもそのはずであった。父の兄(わたしの伯父)は、そのころにはすでに日本にはいなかったのだから。そう、わたしが生まれるよりずっと前に、彼は件の帰国運動によって北朝鮮に「帰国」していたのである。

もっとはやく気づいてもよかった。その機会はいくらでもあった。たとえばダンボール行事である。わが家では年に一度くらい、ダンボール箱に毛布やら古着やら日用品やら食べ物(乾物)やらを詰め込むというイベント(?)があった。わたしもかつて親から買ってもらった玩具や時計を自ら入れた覚えがある。しかし、ぼんやりした子どもであったわたしは、この行事についてよく考えたこともなければ、それがなにを意味するのかを尋ねたりしたこともなかった。

それから、ときどき届く知らない言葉で書かれた手紙。年に1〜2回は届いていたと思う。これについてもとくに深く考えたことはなかった。さらに、祖父の墓に刻まれた知らない名前。父の名前の横に知らない人の名前が刻んである。墓参りに行って墓石を掃除するたびに気づくのだが、これについてもとくに深く考えたことはなかった。まったく、ほんとうにぼんやりしていたものである。思い出すたびにほとほと嫌気がさす(いまもあいかわらずなのかもしれないが)。以前も書いたことだが、このわたしのぼんやり具合は、保護者面談で担任教師をして「この子にはいつもなにかが抜けています」と言わしめたくらいであった(もしいまその教師に会ったとしたら「ぼんやりしててわるかったな!」と言ってやりたい。もっとも教師のほうはそんな冴えない生徒のことなど忘れているのだろうが)。

しかし、いくらぼんやりしていたとはいっても、ぜんぶわたしのせいとばかりもいえない気がする。わが家は極端に「語り」の少ない家庭だった。とくに伯父のことが秘密にされていたわけではなかった。伯父のことだけではなく、あらゆることについて語りが少なかったのである。もちろん言葉を交わすことがなくはなかった。というかむしろ騒がしいくらいであった。しかし、交わされるのはもっぱら報告であったり要請であったり命令であったり叱咤であったり激励であったりするだけで、ファミリー・クロニクルやらパーソナル・ヒストリーなんぞが語られることは皆無であった。要するに、カンヴァセーションはあれどナラティヴはない、そんな家庭だったのである。

そんなこんなで、ようやく小学生の高学年ごろになって、ダンボール行事の意味、そして読めない手紙の意味をわたしは知った。ダンボール箱は北朝鮮に暮らす伯父とその家族への仕送りであった。そして読めない手紙は、彼から母(わたしの祖母)に向けた消息を伝える便りなのだった。(*2)

 *-*

わたしは自分の伯父について、祖母や父に尋ねはじめた。当然のことながら、それまで知らなかった話がたくさん出てきた(祖父はわたしが1歳のときに亡くなっていた)。

伯父は、血気盛んだった父とちがって物静かな人だったらしい。小さいころに階段から落ちて足をわるくした。まったく歩けなかったわけではないが、歩くのにかなり不自由していたようだ。そうした事情が影響したのかどうかはわからないが、伯父は、わが親類縁者をひっくるめても唯一の、知的な事柄に関心をもつ人間になった。

少しは知られているとは思うが、(とくに昔の)在日には自営業が多い。吉川家も代々(とはいっても二代前までしかわからないが)自営業である。商売(仕事)が生活のほぼ全体を占め、そこに学問的なものが入り込む余地はなかった。と書いていて思い出したのだが、祖母といっしょに漫然とテレビを見ていたとき、夏目漱石の写真が映し出されたことがある。それは漱石が巨大な書斎をバックにこちらを見据えて座っている写真であった。祖母はそれを見るなり即座に「好かんわ」と言った。祖母が漱石を知っていたのかどうかは不明だが、あれは漱石にたいする嫌悪というより、大きな書斎が象徴する学問の権威みたいなもの、しかも尊大な日本人のそれにたいする嫌悪だったのだろうかと思う(じつはわたしもこの感覚を祖母と共有しているというか、それが祖母からの影響なのではないかと感じることがときどきある)。とにかく、日本で暮らす朝鮮人としての在日は、ただでさえ貧乏であるに加え、ロクな仕事が残されていない。日本人は助けてくれない。だから自力で飯を食えるようにならなければダメだ云々(*3)とは、親類の年長者からよく言い聞かせられたものだ。インディペンデントであること、これが至上命令であった(もちろん「インディペンデント」などというハイカラな言葉を聞いたことはないが)。(*4)

しかし伯父はちがっていた。彼は高等教育は受けられなかったものの、知的な仕事をもとめて東京へと向かった。そして朝鮮関連の新聞社で働いていたのだという。いまとなっては、具体的にどのような仕事をしていたのかはわからない。ただ、伯父の身体の具合と受けた教育を考えれば、取材に飛び回って激務をこなす記者のような仕事ではなかったのではないかと推測している。

その伯父が、あるとき「北朝鮮に行く」と言いだした。伯父がどのような思いから北朝鮮への「帰国」を決意したのか、詳しいところはわからない。それにたいして、祖母は猛反対をした。祖母が反対した理由もいまやよくわからない。生前の祖母からは、「いい国だと言われて、行ってしまった」という言葉を聞くことができたのみである。さらに詳しい事情は、伯父を直接に知っていた祖母と父がすでに死んでしまったいまとなっては、もはや知ることはできない。

珍しいことなのかどうかは知らないが、わが家のメンバーは全員、ほぼ完全なノンポリであった。ここでノンポリとは、観念(思想)優位の「ポリティカルな思考をしない」「ポリティカルな原理にもとづいて行動しない」という意味である(実際、わが家で北だの南だの米だのソだの政治だの民族だのという政治談義を耳にしたことはいちどもない)。もちろん、在日という存在自体、また在日として生きるとこと自体が高度にポリティカルなことであったろうし、祖母もそれを自覚していたことだろう。また、その自覚なしに生き延びることなどできなかっただろう。しかし、その祖母がポリティカルな理想を信じたためしがないだろうことは、いっしょに暮らしてきたわたしからみれば明らかであった(*5)。異国の地・日本で辛酸をなめながらも着実に生活の地歩を固めてきた祖母の現実感覚(とセットになったノンポリ性)が、帰国運動――とそれを宣伝するポリティカルな言葉――に懐疑の目を向けさせたのかもしれない。

しかし、祖母の反対を押し切って、伯父は出発した。正確な年月日がわからず情けないかぎりだが、伯父が北朝鮮に「帰国」していったのは、1960年代の半ばだと思われる。当時、伯父はまだ20代であった。

伯父は北朝鮮に渡ったのち、北方の寒村に住まわったものと思われる。そこで壺などの陶磁器をつくる職人のような仕事をしていたらしい。考えてみれば奇妙な話だ。もともとジャーナリズムにあこがれて新聞社で働いていた伯父が、北朝鮮で陶磁器の職人になるとは。聞くところによれば、帰国者のうちでもっとも歓迎されたのは技術者や医師などの専門家であり、逆にいやがられたのは政治、経済、法律などの専攻を志望する者、そして病者、日本婦人、老人であったという。ひょっとしたら、伯父は「ジャーナリズムには使えない人材」と判断されたうえに、これまでやったこともない陶磁器づくりの仕事をあてがわれたのかもしれない。または北朝鮮に渡ったのち自ら陶磁器の製作に目覚めたのかもしれない。あるいはそれこそがエリートコースだったのかもしれない。わたしにはわからない(わからないことだらけ推測だらけで、読んでいて腹が立ってくる人もいるだろうが、この点については謝るしかない。わたしも自分に腹を立てている)。(*6)

先に、伯父から祖母に宛てられた手紙が定期的に届いていたと書いた。それなのに正確なことがわからないとはどういうことだといぶかる向きもあるかもしれない。伯父の暮らしぶりが手紙に詳しく書いてあってもよさそうなものだが、実際にはそうはいかなかった。祖母によれば、手紙には家族の安否、必要な物品にかんする報告のほかは暮らしぶりについての話が極端に少なかったという。末尾にはいつも「オモニは正しかった」「オモニの言ったとおりでした」と記されていたそうだ。(*7)

息子が自分の猛反対を押し切って、しかも自分を日本に残したまま「異国」に旅立ってしまったことを祖母はどう思ったか。それを考えると胸が痛む。そればかりか、その息子から言葉少なく「オモニは正しかった」という報告を受け取った彼女。その心中がどのようであったか、もはやわたしは語るべき言葉をもたない。

以上の顛末を、わたしは小学校の高学年のころにはじめて知った。そうしてはじめて、わが家のダンボール行事と外国から届く手紙が、北朝鮮にいる伯父とその家族に結びついたのである。

 *-*

わたしが高校生のとき、北朝鮮から手紙が届いた。しかし筆跡がちがう。それまで送り主は必ず伯父であったのに、今回にかぎって奥さんから届くとは。なにかがおかしい。封を切ると、はたして、伯父が死んだという知らせであった。まだ40代の若さであった。(*8)

これもまた情けないことであるが、手紙を受け取ったその日のことを、わたしはよく思い出せない。ただひとつだけ覚えているのは、その夜は祖母の隣で眠ったことだ。わが家に残された数少ない伯父の写真(数葉しかなかった)を並べて言葉なく涙を流す祖母を前にして、わたしはただ背中に手を置くのが精一杯だった。それ以外わたしはなにもしてあげられなかったし、なんの言葉もかけてあげられなかった。トイレに行こうとしたとき、母がわたしに「いっしょにいてあげなさい」と耳打ちした。(*9)

わたしは自分の部屋から布団を抱えて降りていった(祖母は1階で寝ていたが、わたしの部屋は2階にあった)。まず祖母の布団を敷き、自分の布団をその隣に敷いた。ふたりとも、ずっと無言であった。

「おばあちゃん、おやすみ」と言って電気を消した。暗くなったあとも、祖母はなかなか寝つけなかったようだ。ときどきなにやらつぶやいていたが、わたしには聞き取れなかった(わたしは朝鮮語をほどんど解さない)。わたしはとにかく――それがいったいなんになるのかわからないが――祖母が寝静まるまでは絶対に眠るまいと決めた。

何時間たったかわからないが、しばらく待っているうちに祖母の寝息が聞こえてきた。わたしはそっと布団を出て部屋へ行き、ウォークマンを手にふたたび祖母の隣に戻ってきた。そして布団を頭からかぶり、ウォークマンの再生ボタンを押した。THE BLUE HEARTSのアルバム『TRAIN-TRAIN』が流れてきた。最後の曲の「死ぬまでお前を離さない」というフレーズまで聴いたのは覚えている。そのうちにわたしも眠ってしまった。

  • (*1)ひょっとしたらこれは蛇足というものかもしれないが、当記事において「家」(の思想)なるものが擁護されているなどとは考えていただきたくないものだと希望する。ここではただ、子ども時代のわたしの自己認識はそういうものであったのかもしれない、と推測しているだけである(もちろんどう解釈しようと勝手ではある。だから要請ではなく希望である)。
  • (*2)ダンボール行事の様子がどんなものだったかは、崔洋一監督の映画『月はどっちに出ている』(1993)を参照のこと。ダンボール行事のほかにも、結婚式の様子や家庭料理、家での会話等々が生き生きと、またコミカルに描かれている。
  • (*3)当然ながら、これは在日家庭一般がそうであるという話ではない。わたしが語っているのはわたしの家庭についてである。
  • (*4)そういうわけで、一族には高等教育を受けた者がひとりもいなかった。親類縁者をひっくるめて、その歴史上初の大学進学者がわたしであった。いつの時代の話だよ、という感じだが。
  • (*5)これはわたしの両親にも引き継がれており、母親などはいまだに文字通り「右も左もわからない」。もし彼女が大学などに進学していたならば、否応なく「右と左をわからされた」かもしれない。
  • (*6)友人が教えてくれたところによると、この辺りの事情についてはようやく研究がはじまったばかりとのこと。伯父本人がどうだったかはわからないかもしれないが、今後の調査研究を期待しよう。
  • (*7)もちろん私信も含め詳しい証言も数多く残されているようだ。
  • (*8)これを北朝鮮の圧制によるものと短絡させることには注意したい。たしかに伯父が短命に終わった原因のひとつに貧困からくる栄養不良があったとはいえるとしても、伯父はもともと身体が弱かったし、それにわが家の男はどうしたわけかそろいもそろって短命なのである。だいたい40代から50代で死ぬ。わたしの知るかぎり「60歳の大台」に乗った者はひとりもいない(江戸時代かよ)。どうでもいい話だし、なんの科学的根拠もなく言うのだが、現在33歳のわたしもすでに人生の折り返し地点をとっくに過ぎている――というかもう時間はほとんど残されていない。まあべつにいいんだが――と思い込んでいる。
  • (*9)まったく気が利かない孫である。

◇【関連記事】哲劇メモ > [随想]
◇【関連記事】哲劇メモ > [人さまざま]
◇【関連記事】哲劇メモ > [在日]

Train-Train

Train-Train