哲劇メモ

吉川浩満(@哲学の劇場)の日々の泡

みそつかす


腹が立ってしかたがないので(上記エントリー参照)、気分を鎮めようと幸田文を読んでみる(仕事は?)。書棚からとりだしたのは、ご存じ『みそっかす』。

みそっかす (岩波文庫 緑 104-1)

みそっかす (岩波文庫 緑 104-1)

そのままお気に入りの掌篇、「なのはな」に直行する。すばらしい、としか言うことが思いつかない。

文は、障子の向こうで両親が自分を「よそへやる」のを相談しているのを聞く。文はそっと外に出る。そして夕暮れどきの菜の花畑にうずくまる。

あせっても動けなかった。もう花も顔を近づけなくては見えなくなっていた。いきなり、つめたい濡れたものが頬にくっついた。ぎょっとすると犬の鼻だった。犬はすわっていて私にからだの重みを押しつけてよこし、やたらと涙を舐めた。犬とはちょうど同じすわり背だった。たがいにもたれ合っていると心からかわいかった。そこへすわって縺れた。(p.104)

文さん、すごいよ。これに匹敵する犬描写をなしえたのは、かのロシアの文豪レフ・ニコラエヴィチ・トルストイ翁だけだ。

家で家政婦の役目を勤めている年とったばあやのアガーフィヤの部屋の窓から漏れる光が、屋敷の前にある小さな広場の雪にさしていた。老婆はまだ寝ていなかったのである。アガーフィヤに起されたクジマーが、寝ぼけた眼ではだしのまま、入口の階段へ駆けだして来た。雌の猟犬のラスカは、クジマーの足をはらわんばかりの勢いで、同じように飛びだして来て、彼のひざに身をすりよせ、後足で立っては、主人の胸に前足をかけようとしたが、そこまではしなかった。(トルストイアンナ・カレーニナ(上)』木村浩訳、1972、pp.193-194)

主人リョービン帰宅の場面。犬(猟犬のラスカ)が「主人に飛びついた」とか「主人の胸に前足をかけた」とかいうことなら誰でも書ける。しかし、「前足をかけようとしたが、そこまではしなかった」とは誰も書けない。

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時代は下り21世紀。いまでも、犬の鼻はつめたい。そしてお尻でからだの重みを押しつけてよこす。