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哲劇メモ

吉川浩満(@哲学の劇場)の日々の泡

犬の散歩という罠

メモ 社会学

散歩に連れていく?

わたしの友人が「犬を散歩に連れていく」という表現をめぐってこんな風なことを書いた。……実際にはわたしたちのほうが連れられていく場合が多いのではないだろうか。犬の要求や促しに応えるかたちで。また、散歩中も犬にひっぱられっぱなしであることを考えると、「犬を散歩に連れていく」よりも、「犬に散歩に連れていかれる」とか「犬が散歩に連れていく」のほうが正確なのではないか、云々。

たしかにそうだ。わたしは頷首した。犬と暮らす人なら心当たりがあることだろう。

しかし他方で、「そうはいっても、人と犬とは「飼う‐飼われる(所有‐被所有)」という非対称的な関係にあるのであり、「犬が(人を)散歩に連れていく」などという言いかたは美談にすぎないどころか、人と犬とのあいだにある権力構造を隠蔽してしまう不適切な言いかたである」との反論が寄せられるかもしれない。

いったいどちらが正しいのか? どちらも正しいのか? いまのところわたしには4つの回答が考えられる。

【1】

それらは、犬の散歩という同一の現象についての、可能なふたつの視点である。前者(「犬に散歩に連れていかれる」)は人犬関係における相互行為にのみ定位した視点であり、後者(「犬を散歩に連れていく」)は人犬関係を支える隠された構造に定位した視点である。どちらが正しくてどちらが間違っているということはない。

【2】

前者のみが正しい視点である。後者は前者によって包摂しうるし、またそうしなければならない。たとえば、「ふだんは犬のほうが自分を散歩に「連れていく」ことが多い。もちろん場合によっては――自分の体調がわるかったりあまりに面倒くさいときなど――「わるいな、我慢してくれ」とばかり「権力構造」がクローズアップされることもあるが、そこでは「権力構造」は散歩を拒否する際のエクスキューズに使われているだけであり、その拒否はあくまで犬が人を促すのと同じレヴェルで行われている。後者のように散歩という現象を隠された構造によって説明する必要はない」といったように。

「どちらかの視点を採用しながら、それと同時に「どちらも(それなりに)正しい」というかたちで、もうひとつの視点の正しさを認める」ことはできるのか。仮にわたしが「どちらも(それなりに)正しい」と言うことができるとしたら、わたしはそれをどこから語っているのか。"a view from nowhere"(©トマス・ネーゲル)からか。そのようなことは可能だとは考えられない。

【3】

後者のみが正しい視点である。前者は後者によって包摂しうるし、またそうしなければならない。たとえば、「人と犬とは「飼う‐飼われる(所有‐被所有)」という非対称的な関係にあるのだから、「場合によっては犬に連れていかれることもある」などということはない。人が犬を連れていくという権力構造は変わらない。変わるのは支配者が被支配者に示す「温情」の程度や被支配者が支配者に示す「反抗」の程度だけなのだ。前者の視点は人犬関係の本質――権力構造――を見誤らせる、さらにわるくは隠蔽することになる」といったように。

「どちらかの視点を採用しながら、それと同時に「どちらも(それなりに)正しい」というかたちで、もうひとつの視点の正しさを認める」ことはできるのか。仮にわたしが「どちらも(それなりに)正しい」と言うことができるとしたら、わたしはそれをどこから語っているのか。"a view from nowhere"(©トマス・ネーゲル)からか。そのようなことは可能だとは考えられない。

【4】

「いったいどちらが正しいのか?」といった問い自体が成り立たない。それは一般的に答えられるような問いではない(つまり偽の問題=罠である)。

ここで「正しさ」は「適切さ」と言い換えたほうがよいかもしれない。記述の適切さはその目的や用途に応じて相対的に決まる。そして適切さには程度がある。どちらの視点をとろうとも、結局はその記述の出来いかんにのみにかかっている。その「出来」にはどのような内実があり、その成功と失敗はいったいどうやって判断するのかという問題は残るにしても。しかし、それは実際の記述をもとに議論され、検証されることをとおして判断されることであって、あらかじめこの問題を解決しておくことはできない。