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哲劇メモ

吉川浩満(@哲学の劇場)の日々の泡

Yからの手紙

Forwarded by Hiromitsu Yoshikawa
------------------- Original Message -------------------
From: Y
To: Hiromitsu Yoshikawa
Date: Sat, 04 Sep 2004 03:30:26 +0900
Subject: (untitled)
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吉川浩満

返事が遅くなり申し訳ない。御本をありがとう。あの本は君からの近況報告として読みました(それにしてはちょっと長すぎるようだが)。本の内容については後日また書き送る事にして、とりあえず今日は、お礼に俺からも近況報告をしよう。俺からの報告など、君にとっては面倒事以外の何物でもないだろうがね。

まずは仕事の事。君から教わって始めたニンジン振り、驚くべき事に、まだ続いている。早起きと低賃金はこたえるけれども、毎日決まった時間に上がれるのがいい。仕事場まで歩いて、着替えて、ニンジン振って、着替えて、また歩いて帰る、この繰り返しだ。家では一人で酒を飲んで寝る。いつまで続くか分からないが、しばらくはこれで食っていこうと思う。

さて、問題はアレだ。君は随分前から心配してくれているんだが、まさに心配の筋書き通りに事が進んでいるようで、どうしようもない。いつだったか教えてもらった話を思い出しては鬱々としている。もちろんそれを君のせいにするつもりなどないのだが、どうしても頭から離れなくなってしまった。

こんな話だったと思う。確かウィトゲンシュタインに関する話だったはずだ。……人には二種類ある。水面に浮かびがちな人と、水中に沈みがちな人と。多くの人は自然に水面に浮かび上がるようにできているのだが、ときどき、水中に沈みがちな人もいる。その人が水中に沈むのは、なにも水中遊覧をしたいとかいう意図があるからではなく、単に放っておくと沈んでいってしまうような性質をもっているからに過ぎない。しかも、その人はべつに水中に沈む事をよしとしているわけではない。むしろ、水面に浮かびがちな普通の人の境地になんとか到達しようとして、水中でもがいてばかりいる。そして、もがけばもがくほど深々と沈み込んでいくのだ、云々。

かなり歪曲しているのかもしれないが、ともかく、四十路に入ったあたりから、この話が妙に気になるようになった。今の俺は、まさに(君も指摘してくれたように、それは単なる自縄自縛にすぎないのだろうが)水面に浮かび上がろうともがきながら、逆に水中にどんどん沈み込んでいる有様だ。

俺もきっと沈みがちな人間なのだろうと思う。こんな事を言うと、君はむっとするかもしれない。そうだ、もちろん俺はただただ沈んでいくだけなのであって、君の好きなウィト氏のように素晴らしい仕事を残すというような離れ技などできない。俺が思い上がって彼と自分を同列に置いているなどとは思わないでほしい。俺にもそれができるかもしれないと勘違いした時期もあったが、今や俺にはそんな事をしでかす才能も能力も残されていないと確信している。この重大な違いを踏まえた上でなら、氏と俺如きを並べてもバチはあたらないだろう。

この状態が良いものだとは到底思えない。しかしそれが悪いと言われると抵抗したくなるのだ。駄々をこねる子供のようだが、どうしようもない。少なくとも、それが良いか悪いかは別として、今まではそうであり続けているという事だけは確かだ。

浮かぶ者は水面をうまく泳ぐ事ができるだろう。俺もそういう人のうまい泳ぎを見るのが嫌いではない。しかし、浮かぶ者が、沈む者の思考を彼の水泳の技法として採り入れる時(俺にはそれは物凄く簡単な事に見える)、その当の思考がすっかり失われてしまう(浮かぶ者を非難したいのではない。浮かぶ者にとっては「沈む」という事実そのものが存在しない訳だから、沈む者の何をどう扱おうが一向に構わない訳だ。そしてそれで世の中は万事問題なしであり、事実そのようにして万事問題なく物事は進行している訳だ)。しかし、それを目撃する時、また自分がそうした事態に巻き込まれていると感じる時、俺は何とも言えない寂しさを覚える。怒りでもない、悲しみでもない。寂しさだ。

俺が何を言っているのか理解できないかもしれない。正直に言って、君についてさえ、それを理解してくれているだろうという確信が持てないのだ。浮かぶ者にとって「沈む」という事実が存在しない以上、沈む者が抱える問題もまた存在しないのだから。

人は必ずしも沈む必要はない、というのは本当の事だ。浮こうが沈もうが、それは人生色々の世界であって、一般に人はどっちであろうと構わないのだろう。それを俺は喜んで認める。しかし、浮かぶ者の泳ぎと沈む者のもがきとは全く別物だ。そして、浮かぶ者は沈む者の仕事をその興味関心に従って自由に利用できるが、その逆はありえないという事を忘れてはならない。

浮かぶ者は水面から水中を覗き込む。すると沈む者が水中でもがいているのが見える。浮かぶ者はひょっとしたら、おもしろい泳ぎ方だな、私も一つやってみよう、と思うかもしれない。そして少しの間水中に潜り、沈む者の真似をさえしてみるかもしれない。浮かぶ者には、沈む者のもがきが泳ぎにしか見えない。彼はうまく泳ぐことにしか関心がないからだ。これはある意味では不幸であるのかもしれない。彼は自由に好きなように泳ぐしかないという、いわば自由の刑に処せられているのだから。ともかく、水面生活者は泳ぐしかない。しかし、それは泳ぎではないのだ。沈む者は、水面に浮かび上がりたいがためにもがいているだけなのだ。

浮かぶ者と沈む者の関心は決して交差しない。浮かぶ者が沈む者の何かを利用する一方で、沈む者にとってそれは、利用できるような、つまり利用する自分と利用されるものを切り離して考える事ができるような、そんな何かではないからだ。浮かぶ者は両者の関係を考える必要などない。彼にとっては沈むという事実自体が存在しないのだから。しかし、沈む側からしてみると、その問題が浮かぶ者の泳法に利用される時、何かが決定的に失われたように感じられるのだ。浮かぶ者にとって水中遊泳であるものは、沈む者にとっては泳ぎですらない。確かにそれは端的に言って被害妄想であるに違いない。そもそも浮かぶ者にとっては沈むという事実そのものが存在しないのだから、沈む者がそれをいくら浮かぶ者に訴えたとしても、それは根拠のない妄想に留まらざるを得ない。何を寝ぼけているんだ、そんな問題など初めから存在しなかったのだ、私の仕事をよく見てみろ、ほら存在しないだろう、……という訳だ。

この事を考える時に俺がいつも思い浮かべるのは、カフカ『審判』の結末だ。内容が版によって色々違っているし、現物はとうに古本屋に売り払ってしまっているので記憶を頼りに書くのだが、この小説の最後にヨーゼフ・Kは、誰もいない石切り場のようなところで官吏のような者に殺される。誰にも知られずひっそりと死んでいく彼の最後の言葉は、「犬のようだ」というものだ。犬死にとはまさにこの事だが、上のような妄想を抱く時、俺はヨーゼフ・Kのように誰にも知られず密かに殺されているように思うのだ。きっと殺されるだろうという諦念と、自分が殺されるときの光景が脳裏に浮かぶと言ったほうがよいかも知れない。

さらに悪い事に、この妄想は放っておくとどんどん膨張して際限なく拡がっていってしまう。まるで世の中全体が巨大な殺人工場に見えてくるのだ。その殺人工場の総体を、俺は「文化」と呼ぶ。浮かぶ者は、彼が享受する作品を「文化」などという範疇のもとに捉えている訳ではなかろう。彼は、自分には文化などという大義名分は必要ない、ただただ自らの生を豊かにしてくれる貴重な出会いや出来事のようなものとして作品と接しているだけなのだと主張するに違いない。しかし沈む者にとっては、浮かぶ者達のこうした享受のネットワークこそが、自分を殺すことになる殺人工場に他ならないと感じられるのだ。「文化」という下品な言葉は、自分を殺す事になるだろうこの殺人工場に対して沈む者が恨みがましく投げ付けた蔑称として生まれたに違いない。もちろん、文化の方では俺の事など、俺がこの地下室の壁にこうやって闇雲に頭を打ち付けている事など、知った事ではない。仮に知ったところで何が変わるという訳ではない。それもそのはずだ。そもそも文化などというもの自体、俺の被害妄想がでっち上げたものに過ぎないからだ。そしてその文化とはそのようなものであってくれなければ俺が困るのだ。俺のこの寂しさを投影する何かが俺には必要で、俺はそれを文化と呼んでいるのだけなのかも知れない。何て格好悪い事だろう。……俺にもいつか、こんな偏狭なものの考え方から解放される日がやってくるかもしれない。こんな人間の区分法自体、怨恨の妄想が生み出した下品で粗雑なレッテル貼りに過ぎない。それに俺だって殺していないかどうかと考えると、かなり怪しいところだ。きっと日々殺しているのだろう。さらには殺しが端的に悪だとも言えまい。そう考えると余計にこの妄想が無意味なものに思えてくる。しかし、それを認めた上でもなお、この妄想から解放される事が本当に悦ばしい事なのかどうか、俺には未だに分からない。ここにひとつの妄想がある、という事実が俺を捉えて離さない以上、それを簡単に乗り越えてしまうことなどできはしない。長い間考えてきた事であるにも関わらず、いや、考えてきたからこそなのかも知れないが、俺には分からない。しかし、分からない以上は、馬鹿みたいにこだわり続けるしかない。

最近、負け犬とか勝ち犬とか負け組とか勝ち組とかいう言葉が話題になっているようだ。俺はこういう言葉遣いを愚劣なものだと考えているし、こうした勝ち負けの言葉遊びで一喜一憂する事もできる限りしたくないのだが、しかし、ある種の人々がどうしても勝ち負けという言葉を使いたくなってしまう事情があるという事は認めたいと思う。勝ち負けの議論に抗して「勝ち負けなんて関係ない」と言う人を、俺は嫌いではない。しかし、何の屈託も躊躇もなく安んじてそう言えてしまえる人は、俺からすると、彼が反対していると思い込んでいる当の相手、つまり「勝つことこそが大事だ」と当然のように言ってのける人と全く同じに見える。その時、勝ち負け問題を引き起こした元々の屈託や躊躇は消え去る。もちろん、人は「勝ち負けなんて関係ない」と言いながら生きていって何の問題もないし、それはそれで素晴らしい人生なのだろう。しかし俺が考えているのは、どちらが正しい考え方かというような事やどちらを信じるかといったような事ではない。つまり勝ち負け問題に対して正しい、また信じるべき意見を持つ事ではない(しかし、そもそも勝ち負けという問題そのものを持たない者が「勝ち負けなんて関係ない」などとしたり顔で言い放つのはどういう了見からか)。俺が引っかかるのは、それに対してどのような意見を持つにせよ、そもそも何で勝ち負けなどが問題になっているのか、という事の方だ。念のために言っておくが、俺は屈託や躊躇がそれ自体として価値があるものだと考えているのではないし、それを人が持つべき素晴らしい美徳だなどと考えているのでもないし、ましてや、屈託や躊躇のない者は馬鹿だなどと考えているのでもない。ただ、勝ち負けが問題ではない者にとって勝ち負けを問題にせざるを得ない者の屈託や躊躇は不可視であろうという事を言いたかったのだ。

この勝ち負けの問題は、俺にとっては言葉とどう渡り合うのかという事と区別がつかない。言葉による表現に賭ける時、人は二つの選択肢の前に立つことになる。一つは、言葉でないものを担保しながら言葉に不戦勝する事。もう一つは、言葉でないものを担保することを拒絶しながら言葉に負ける事だ。言葉に不戦勝してしまえば、後はどうとでも言える。何か言う事の故郷を言葉でないものに担保している以上、後はどうとでも言うしかない。他方で、言葉に対する不戦勝を拒否するならば、後はどのように負けるかという仕事だけが残されている。不戦勝は簡単だ。たとえば「創造」などという言葉を口に出すだけで、既にそれは達成されている。その後に何を言おうが、既にその第一歩目で決定的な決着はついてしまっているはずだ。不戦勝者はひょっとしたら、その言葉を口に出した後にこそ本来の仕事がくるのだと考えているのかもしれないが、事態は全くその逆なのだ。その言葉が発せられた時点で全ては終わっているのである。いったん不戦勝をしてしまえば、あとはいくらでも美辞麗句を連ねる事ができる。もちろんここでは美辞麗句の美しさや麗しさを問題にしているのではない。それが不戦勝によって初めて可能になるというだけの話だ。そもそも不戦勝によって安んじて口に出せる位のものが創造であるのなら、むしろそんな言葉は無用の長物ではないか。それを気安く口にできる不戦勝者は、言葉との勝負という問題とはついに無縁であるに違いない。しかしそうした不戦勝者に限って、特定のイデオロギーや信仰から自由な言葉それ自体の力なるものなどについて語りたがるのだ。密かに言葉に対して不戦敗という不名誉を負わせているにも関わらず、である。言葉は単なる道具ではないと語る者こそ言葉を単なる道具として使っているという逆説。そこでは、不戦勝を潔しとしなかった沈む者のぶざまなあがきが、笑止なことに、いや面白うてやがて哀しきことに、浮かぶ者の不戦勝の上に築かれた土俵において、いつのまにか正式競技として採用されるに至る。競技の道具に成り下がった言葉達はそこで「目には目を」の戦いを繰り広げているに過ぎない。「土俵が嫌なら出て行ってほしい」とはもっともな話だ。頼まれなくても、俺は土俵の下から「目には歯を!」と言い続ける事だろう。

話が脱線してしまった。まあ、もとより本線などないに等しいのだが、とりあえず話を戻そう。

今頃君は苛立たしくてしようがないのかも知れない。「僕に一体どうしろと?」という訳だ。苛立つのも当然のことだ。しかも俺は、君に「僕に一体どうしろと?」と叫ばせておきながら、「いや、どうしてほしい訳でもない」と答えるのだ。俺のこの煮え切らなさが、君の苛立ちを倍加させるのだろう。君が苛立たなければならないのは、君が俺のたった一人の友であるという、全くの偶然的な事情に存する。君にとっては運の悪いことに、俺は俺の詮無い事を述べ立てる相手を君しか持っていない。君と知り合った時、俺は今の君位の年齢だった。その頃の俺にはまだ友人がいたし、それに何より、詮有る事を述べ立てる事ができるのではないかという勘違いがあった。あれから十年が経ち、苦い諦念と共に俺が納得したのは、詮有る事を述べる事ができるかも知れないという勘違いの中に既に、今の俺の詮無い事への没頭という種が宿されていたという事だ。

苛立たしく感じなかったとしても、君はきっと俺の事をつくづく気持ち悪い男だとは思うだろう。俺だって自分が気持ち悪いのだ。しかも、ただ気持ち悪いだけならいいのだが、いやよくないのかも知れないが、それだけでなく、自分の訴えをどうにかして君に面白可笑しく読んでもらおうと四苦八苦して文章を工夫しているこのいじらしさが、気持ち悪さを倍加させるだろう。俺がこれまで述べ立ててきた事は、全て言わなくてもいい事なのだろう。言っても詮無い事なのだろう。詮無い事をくだぐだ言っていないで日々の仕事へ帰れ、という事なのだろう。

水面生活者にとっては、詮有る事と詮無い事という区別は存在しない。あるのはただ面白い事と詰まらない事の区別だけだ。俺が詮無い事の泥沼にはまり込んでしまったのは、俺が詮有る事を実現できるほどに優秀ではなく、さりとて詮有る事をやっているのだと自分自身を騙しおおせる程には愚かではなかったからだ。自分を騙し通す事を是としない程には誠実であったと言ってもいい。しかし、その誠実というのが曲者なのだ。誠実は最も質の悪い不誠実に落ち込まずにはいない。その事を今俺は鈍い痛みとともに理解する。君ならこう言うだろう。そうなのです、そういう事なのです、と。しかし俺は君のその解説を拒否しよう。全く食えない奴だと思うだろうが。

俺が君のありがたい忠告を拒否せざるを得ないのは、何も君の事が嫌いだからではない。何しろ君は今や俺のただ一人の友なのだから。また、君の言っている事が間違っているからでもない。俺は君の話を理解できる。理解できるのだが、しかしどうしようもないのだ。君が俺の話を理解できたとしてもどうしようもないように。君は当惑しながらも気を利かせて「こうすれば、こうなる」と忠告してくれる。しかし俺にとって「こうすれば、こうなる」ことなどありはしないのだ。問題があるか、ないかのどちらかなのだ。問題があれば、決してそこからは逃れられない。問題がなければ、それは初めからなかったことになる。ある時点においては、決して乗り越えられない問題があるか、初めから乗り越えるべき問題などなかったか、二つに一つなのだ。ある状態からない状態への移行などあり得ない。

「こうすれば、こうなる」と言い得るのは、水面という別世界の住人のみだ。俺がそう言い得るためには、その別世界への跳躍が必要になる。しかし逆説的なことに、跳躍が必要な者には跳躍は決してできないのだ。跳躍という課題を持っているそのことによって跳躍は不可能になる。跳躍という概念を持ってしまった者は、まさにその事によって跳躍することができない。逆に、すでに跳躍してしまっている者には、跳躍という概念それ自体が存在しない。君の忠告が結果として実現されるためには、俺が初めから水面で生活しているか(しかしもしそうであればそもそも忠告自体が必要ないはずだ)、あるいは何らかの事情、たとえば雷が落ちたり洗脳されたり病気になったり交通事故に遭ったり劇的な回心が起こったりするなどして、端的に「人が変わる」事が必要なのだが、ともかくそのようにして人が変わった後には、初めから問題などなかったことになる。そしてそれは、断じて「こうすれば、こうなる」ではない。水面生活者ならば、安んじて「こうすれば、こうなる」と語ることができる。しかしそれはパートタイムの水中遊泳者たる水面生活者ならではの特権に思える。沈む者にはそんな処方箋など効かないのだ。

それだと先へ進めないじゃないか、と君は思うかもしれない。実際、そのような言葉を君から掛けてもらったこともある。それはありがたいことだったが、しかし、本当に「先」なんてものがあるのだろうか? 俺は疑っている。じつのところ、ただ「次」があるだけではないのか。沈む者のあがきが如何にも泳ぎであるかのように提示しておき、その泳法をマスターしてその先へ進もうと言う。先にも言った通り、あがいている以上は先などないのだ。逆にそれが泳法であるなら、そもそも問題などなかったのだ。沈む者のあがきを展示した上でその先へ進もうと言うスローガンの専門家達は、どこにでも見つかるものだ。言っている事が実際には決して実現しないからこそ、彼等は安心して口当たりの良いスローガンを口にすることができる。これで一生食っていけるという訳だ。俺にとっては全く不思議な事だ。もし君が「いや、自分は「先」と言ったが、それは「次」の間違いだった」と言うならば、俺はそれに同意しよう。端的に「次」の事をすることが如何に治療的か、それは俺もよく分かっているつもりだからだ。しかしそうなったら、今度は君の忠告は宛先を失うに違いない。

さて、ここで君が俺にこう問うのは正当だ。つまり、「しかし、そんなことを言いながら貴方は水死することもなく、現に生きているではないか?」と。その通りだ。沈む沈むと騒ぎながら、今も俺は窒息することなく生き続けている。水中で息をすることなどできない相談であるにも関わらずだ。結局、俺も実はどこかで水面に浮上して息をついでいるのである。俺は水面生活を貶めるつもりはない。だから俺がどこかで水面に浮上していたところで、そのこと自体が悪い事だと言うつもりはない。しかし、素直に水面生活を営むことができないとお涙を頂戴しながらその実こっそり水面で息をして生き長らえるとは、俺ほど下らない人間はこの世に存在しないのではないかとすら思えてくる。そして、それもまた誇大妄想というものなのだろう。

また、君がこう問うのも正当だ。つまり、「貴方は、自分だけが損をしていると喚き立てる自称・可哀相な人と何が違うのか?」と。その通りだ。そもそも、ある問題が別の人物や文脈に接続された時にその意味を変えるなどということは、あまりにも自明なことではなかろうか。問題などという大それた言葉を使わなくとも、人々のやり取りにおいてそうした事態は日々生じている事であるに違いない。それをさも自分だけが傷ついたかのように、お涙頂戴風に語り続ける俺は一体何様なのだろうか。こんな体たらくでは誰のお涙も頂戴できないだろう。それにしても、こんな詮無い事を語り続ける位なら君の好きな単車にでも乗って外に出かける方がずっと良い事かも知れない。

俺は「幸せになろう」という見果てぬ夢に憑かれた憐れな人間だ。それどころか自分が悲劇のヒロインであるが如くに大袈裟に嘆いてみせる鼻持ちならない人間ですらあろう。しかし、それを言うならば、彼等は「幸せであろう」という強迫観念に取り憑かれた不幸な人間だ。「幸せになろう」から背を向けた彼等は、自らが幸せであることの証を求めて彷徨い始める。際限なく自らの幸せを確認し続けようとするその貪欲さに薄気味悪いものすら感じるのは俺だけだろうか。いや、何も俺の方がましだなどということを言いたい訳ではない。結局のところ目糞鼻糞ではないのかと言いたかっただけだ。

今まで述べてきた俺の考えが単なる妄想にすぎないとしても、ここにひとつの妄想があるという事はなくならない。そんなものはないに越した事はないかも知れないし、初めからないのかもしれない。それにしても、なぜそんなものを俺は君に語るのか。それは「記憶されない殺人の記録」を作るためだと、こう言ったら君は笑うだろうか。いやむしろ、そんなに大それたものではないじゃないかと怒り出すだろうか。確かにそうだ。自分可愛さからついつい良く言い過ぎてしまった気がする。ではこう言い直そう。俺には俺の詮無い妄想をぶつける相手が必要なだけなのだと。そして、俺はたった一人の友である君にすらそれを行わなければならない程に悪い状態にあるのだと。最後に、これは君にも俺にもどうしようもない事なのだと。こちらの方がより実情に合っているだろう。

思わず長くなってしまった。前回ほど酷くはなさそうだが、今回もまた近況報告という名を借りた独り善がりの戯言を撒き散らしてしまったようだ。こんなものを読まされる君には申し訳なく思う(等と言いながら、実はそんなことは露程にも思っていないのだが)。ただ、自分が他人のこのような文章を読まされる苦痛を思うと、少し君に同情を覚えるのは確かだ。

まだ書きたい事は山程あるが、これ以上長い文章を読まされるのもさすがに迷惑だろう。尻切れトンボながら、今回はこれくらいにしておく。もっとも、毎回お馴染みのこの調子であってみれば、分量が短かろうが長かろうが大した違いはないのかもしれないが。

また続きを送るよ。君もたまには返事をくれ。

それでは、また。


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