読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

哲劇メモ

吉川浩満(@哲学の劇場)の日々の泡

市野川容孝『身体/生命』

身体/生命 (思考のフロンティア)

身体/生命 (思考のフロンティア)

概要

ある時代、ある社会において、身体のかたち、生命のかたちがどのように構成され、また、それらがいかなる社会的諸実践と結びついたのか、そうしたことをフーコーの「生‐権力」という概念を下敷きにしながら、歴史的にふり返ってみる(p.1)

この叢書(「思考のフロンティア」)にふさわしい簡潔さ(大雑把さ)によって上記の目的を達する好著。

今日、医療の現場では「倫理」ということが盛んに問題にされている。「生命倫理」という言葉も頻繁に耳にする。そうした現状であれば、なおさら、身体/生命がどのように語られてきたかばかりでなく、私たちが現在、身体/生命をどのように語るべきかについて考える必要がある。以下では、そのことについて、いくつかのことを述べておきたいと思うのだが、私はそれを、ナチスの医療政策に反照させながら身体/生命がどのように語られるべきではないかというかたちで提示しようと思う(p.107)

コンパクトな入門書としての性格上、上記の宣言どおり「積極的な提言」はない(「〜と語られるべきである」ではなく「〜と語られるべきでない」ということを提示する)のだが、論点の整理に役立った。

論点

脳死・臓器移植問題における小松美彦氏の貢献

小松氏の貢献のひとつは、日本において(俗にいう)「心臓死」(三徴候死)の歴史的起源を明らかにしたことである。

これまでじつに多くのことが述べられてきた脳死論議のなかで、心臓死はまるで所与であり自然なものであるかのように扱われてきた。しかし、これはまずい。なぜなら、心臓死という「死の基準」は所与のものでもなければ自然なものでもない、つまり心臓死も脳死と同じように特定の歴史的起源をもつ「線引き方法」のひとつだからである。

以上の認識に立てば、「人工」的な脳死にたいして「自然」的な心臓死を対置するという批判の方法が成り立たないということがわかる。ちなみに(あくまで「ちなみに」レヴェルの指摘にすぎないが)、この認識は相対的に「脳死・臓器移植推進論者」のほうに(理屈のうえでは)有利に働くだろう。推進論者は、時代の趨勢に乗っかって「心臓死などという〈古い線引き〉に代えて、脳死という〈よりよい/効率的な/時代に応じた線引き〉を」とストレートに主張できる。これにたいして反対論者は、脳死という線引きの問題性についての実証的な指摘と、「現代科学技術文明批判」の線上での「実感」をもとにした「感情教育」の試行に頼るほかなく、苦しい戦いを強いられるように思える。

※反対論者にことさらに肩入れしているのではない。言説状況の見取図としてそういえるのではないかということ。

「早すぎる埋葬」の現代版

臓器摘出時に脳死者が示す急激な頻脈や血圧上昇の事実は、18世紀から19世紀にかけて全ヨーロッパを震撼させた「早すぎる埋葬」を思わせる。

しかし、オリジナル版と現代版では重要な相違が存在する。オリジナル版には「帰還者」が存在したが、現代版には「帰還者」は存在できないのである。脳死者は臓器を摘出されれば100%死ぬ。というより、死ぬことを前提に臓器を摘出される。

※ひどく不謹慎でグロテスクな想定ではあるが、理屈のうえでは次のような事態も考えられる。……脳死者が臓器を摘出されたのちに別の脳死者から臓器を移植され、かつ(低温脳療法などの新技術により)脳死状態からの脳の蘇生が行われ、他者とのコミュニケートが再び可能になった場合。……事実上はほとんどありえないのだが権利上はその可能性を排除できない以上、「ジャスト・ワン・ウィットネス(一人だけの証人)」(©カルロ・ギンズブルグ)は存在しうると考えるべきかもしれない。

ビシャの生命観

ミシェル・フーコーを魅了したマリ・ブランソワ・ザビエ・ビシャの生命観において、生命は以下のふたつのものに分けられる(cf.ビシャ『生と死に関する生理学研究』1800年)。

  • 有機的生命(内的生命)=身体の内側で繰り広げられる生命活動(座は心臓)
  • 動物的生命(外的生命)=外界から刺激を受容したり外界へ働きかける生命活動(座は脳)

かんたんにいえば、前者は消化や血液循環など身体の有機的統一を保つ活動で、後者は知覚や思考などの精神活動。

ビシャは動物的生命(外的生命)にたいして有機的生命(内的生命)を優位に置き、内的生命の死をもって人間の死とする。だから人間の死の基準は脳の機能停止にではなく心臓の機能停止に求められるべきだということになる。ビシャのこの見解が心臓死(三徴候死)にひとつの基礎を与えたと思われる。

現代のパーソン論における「生物的生命/人格的生命」の区分も、このビシャの生命観の延長線上にある。また、結論としてはビシャと正反対である現代における「脳死=死」の定式も、上記のビシャの問題意識を引き継いでいるとはいえる。死の基準を有機的生命(内的生命)の喪失に求めている点では変わらないのだから。しかし、現代の脳死・臓器移植推進論者は、それを前提したうえで死者の定義を拡大しようとする。つまり、「生命維持装置を使用しないかぎり有機的生命を失ってしまう人=脳死者は死んだことにしよう」と言っているのである。さらにしかし、次の論点で明らかにするように、生命観と脳死理解のあいだには奇妙なねじれが存在し、とうてい一筋縄ではいかないことも、またたしかである。

(つづく)

【追記】もう時間がないので「つづき」は書けない。