哲劇メモ

吉川浩満(@哲学の劇場)の日々の泡

◆職業としての学問

学問がこんにち専門的に従事されるべき「職業」としてもろもろの事実的関連の自覚および認識を役目とするものであり、したがってそれは救いや啓示をもたらす占術者や予言者の贈りものや世界の意味に関する賢人や哲学者の瞑想の産物ではないということは、もとよりこんにちの歴史的情況の不可避的事実であって、われわれは自己に忠実であるかぎりこれを否定することができない。そして、もしここにふたたびかのトルストイがあらわれて、学問がそれをなしえない以上は、例の「われわれはいったいなにをなすべきか、またいかにわれわれは生きるべきか」とう問い――あるいは今夜ここで使われたことばでいうならば「あい争っている神々のいずれにわれわれは仕えるべきか、またもしそれがこれらの神とはまったく違ったものであるとすれば、いったいそれはなにものであるか」という問い――に答えるものはだれかとたずねたならば、そのとき諸君は答えるべきである、それはただ予言者か救世主だけである、と。

マックス・ウェーバー『職業としての学問』尾高邦雄訳、岩波文庫、1936