哲劇メモ

吉川浩満(@哲学の劇場)の日々の泡

想像と思考

このことをはっきりさせるために、私はまず第一に、想像のはたらきと純粋な悟性のはたらきとの間にある相違を検討することにする。たとえば、私が三角形を想像するとき、私はそれが三つの線によって囲まれた図形であることを理解するばかりでなく、同時にまた、その三つの線を、あたかも現前しているもののように、精神の眼で直観するのであって、これこそ、私が想像と名づけるところのはたらきである。


ところで、もし私が千角形について考えようと欲するなら、なるほど私は、三角形が三つの辺から成る図形であることを理解する場合と同じように、それが千の辺から成る図形であることをよく理解するにしても、しかし、(三角形の三つの辺の場合と)同じように、その千の辺を想像することは、すなわち、あたかも現前しているもののように直観することはできないのである。もちろんこの場合にも、私には、物体的なものを考えるたびごとにつねに何ものかを想像する習慣があるので、おそらく私はなんらかの図形を漠然と思い浮かべるであろうが、しかし、その図形が千角形でないことは明らかである。なぜなら、その図形は、私が万角形とか、もっと多くの辺をもつ任意の図形とかについて考えるとき思い浮かべる図形と、なんら異なるところがないし、またその図形は、千角形を他の多角形から区別せしめる特性を見つけだすうえに、なんの助けにもならないからである。


ところが、五角形が問題である場合には、もちろん私はその図形を、千角形の図形と同じように、想像の助けを借りずに理解することができるが、しかしさらに、その図形を想像することもできる、すなわち、精神の眼をその五つの辺に、そして同時に、その辺によって囲まれた空間に向けることによって、想像することもできるのである。


ここにおいて私は、想像するためには、ある特別な、心の緊張を必要とするが、これは、理解するためには私の用いないものである、ということを明白に認める。この新しい、心の緊張こそ、想像のはたらきと純粋な悟性のはたらきとの間の相違を明らかに示すものなのである。


なおまた私は、私のうちにある、この想像する力が、理解する力と異なるものであるかぎり、私自身の本質にとっては、すなわち、私の精神の本質にとっては、必要とされるものではないことをも認める。というのは、仮にそういう力が私に欠けているとしても、疑いもなく私は、それでもやはり、現にあるとおりの私であるだろうからである。ここからして、想像する力は私とは異なった何ものかに依存するということが帰結するように思われる。


ところで、もしある物体が存在し、これに精神が結びついていて、任意のときに向きなおり、いわばそれを注視するのだとすると、まさしくこういうふうにして、私が物体的事物を想像するということが生じうるわけであることを、私は容易に理解する。したがって、このような意識の様態が純粋な悟性作用と異なるのはただ次の点だけである。すなわち、理解するときには、精神が、いわば自己を自己自身に向け、精神そのものに内在している観念のあるものを考察するのであるが、想像するときには反対に、精神が、自己を物体に向け、その物体のうちに、精神自身によって理解された観念なり、感覚に知覚された観念なりに対応するあるものを、直観する、ということだけである。

デカルト省察』(省察六)、『省察 情念論』井上庄七ほか訳、中公クラシックス、2002、pp.108-110

想像/思考/論証

想像と思考のちがい、思考と論証のちがい。
cf. デカルト、ローティ