哲劇メモ

吉川浩満(@哲学の劇場)の日々の泡

内田樹「邪悪なものが存在する」、『期間限定の思想――「おじさん」的思考2』晶文社

邪悪なものによって損なわれるという経験は、私たちにとって日常的な出来事である。しかし、私たちはその経験を必ず「合理化」しようとする。

愛情のない両親にこづき回されること、ろくでもない教師に罵倒されること、バカで利己的な同級生に虐待されること、欲望と自己愛で充満した異性に収奪されること、愚劣な上司に査定されること、不意に死病に取り憑かれること……数え上げればきりがない。

だが、そのようなネガティヴな経験を、私たちは必ず「合理化」しようとする。これは私たちを高めるための教化的な「試練」であるとか、私たち自身の過誤に対する「懲罰」であるとか、私たちをさらに高度な人間理解に至らせるための「教訓」であるとか、社会制度の不備の「結果」であるとか言いつくろおうとする。

私たちは自分たちが受けた傷や損害がまったく「無意味」であるという事実を直視できない。

だから私たちは「システムの欠陥」でも「トラウマ」でも「水子の祟り」でも何でもいいから、自分の身に起きたことは、それなりの因果関係があって生起した「合理的」な出来事であると信じようと望む。

しかし、心を鎮めて考えれば、誰にでも分かることだが、私たちを傷つけ、損なう「邪悪なもの」のほとんどには、ひとかけらの教化的な要素も、懲戒的な要素もない。それらは、何の必然性もなく私たちを訪れ、まるで冗談のように、何の目的もなく、ただ私たちを傷つけ、損なうためだけに私たちを傷つけ、損なうのである。

内田樹「邪悪なものが存在する」、『期間限定の思想――「おじさん」的思考2』晶文社、pp.66-67

内田樹「女は何を望んでいるか」、『期間限定の思想――「おじさん」的思考2』晶文社

「女の欲望」をなぜ男は構造的に見誤るのか。その理由はもうお分かり頂けただろう。

それは、「女の欲望を男が構造的に見誤ること」をこそ女が欲望しているからである。だからこそ、女を心から愛する男は、女の望み通りに、もっとも重要な瞬間において、もののみごとに「女の欲望を見誤る」ことになるのである。

逆のケースを考えればすぐに分かる。次々を女を手玉にとって、何人もの女に愛される男というのがいる。なぜ、そんなことが可能なのか。それは彼が女たちを少しも愛していないからだ。愛していないから、彼は「女の欲望を見誤って欲しい」という女たちのもっとも深い欲望には眼も向けない。愛のない眼には曇りがない。だから彼には、女が何を望んでいるかがお見通しなのである。女の欲望を見誤らないのは、女を愛していない男だけなのだ。

分かったかな。だから、君の彼が君のことを真剣に愛していれば、彼は必ず君の欲望を見誤ることになるだろう。

君が「ロマンティックな気分になりたい」と思うときにマイク・マイヤーズの映画に誘い、君が「さっぱりしたものを食べたい」と思うときに南京街へ繰り出し、君が「今夜はゆっくり……」と思うときに、突然急な仕事を思い出すような男、それがほんとうに君のことを愛している男なのだ。彼は君の「欲望」をすべて見誤ることによって、君の「もっとも深い欲望」に感応しているのだ。

内田樹「女は何を望んでいるか」、『期間限定の思想――「おじさん」的思考2』晶文社、pp.77-78